90億の神の御名

この世界のほんの些細なこと

そうか君はもういないのか

「生きてる作家の本は読まない?」
「生きてる作家になんてなんの価値もないよ。」
「何故?」
「死んだ人間に対しては大抵のことが許せそうな気がするんだな。」
                 村上春樹風の歌を聴け


好きな作家(文章に限らず全ての)は、初めて出会った時にはもうこの世にいなかった人の方が多い。既に亡くなっている作家は、その人生と作品と全部含めて一つの完結した物語のように思えるし、まだ生きている作家に関しては、「これからどうなってゆくのだろう」と物語の続きを気にするような気持ちが少しだけある。
それにしたって、会ったことも話したこともない、本当はどんなことを考えて生きているのかだって、全く知らないただの他人だが、それでも亡くなれば「え!!」と声を上げ、少なからずショックを受ける。
ただ作品を見たり聞いたり読んだりするだけの自分にとって、その人が生きているか死んでいるかなんて、さほど問題ではないというのに。


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これは柳宗理デザインのやかん。どうしても気に入ったやかんが欲しくて欲しくて2ヶ月ほど悩み抜いた末購入したものだ。
2年前の冬、柳宗理が亡くなった日、このやかんでしゅんしゅんとお湯を沸かしながら、「この子は今日もこんなに元気なのに、この子をデザインした人は今日亡くなったんだな」と台所でしみじみと立ち尽くした。大量に生産されたものであるのに、なんだか突然彼の遺品を持っているかのような心持ちになって。

何年か前、旅先の高知でふらりと入った本屋には「追悼:佐野洋子」というコーナーが設けられていた。佐野洋子が亡くなったことはとうに知っていた。けれど実感が湧いたのはこの追悼コーナーを見たせいだ。それでエッセイを1冊買って、ビジネスホテルの狭い部屋で一人「ああ懐かしい」と読み返しながら「そうか、この人はもういないのか」と、彼女の不在を強く思った。


昨日は会社帰りにブリヂストン美術館に行ってきた。金曜日は夜20時まで開館しているのだ。今年の2月末に行って、ここのコレクションに心惹かれ、特にザオ・ウーキーという中国系の画家の絵に強く胸を打たれて画集を買って帰った。
4月7日に「運命」というタイトルでブログを書いたのだが、なんと4月9日に亡くなっていたらしい。

世界文化賞の中国系仏人画家、ザオ・ウーキーさん死去 叙情的な抽象画 - MSN産経ニュース

遅ればせながらブリヂストン美術館のショーウィンドウに「併設:追悼ザオ・ウーキー展」と書いてあった事で初めて知った。夕方のブリヂストン本社前交差点で、その文字を見て「え!」と声に出して驚いた。

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ポストカードや画集で何度も何度も見返したこの絵。本物はやっぱり全然違って、真ん中にまるで「スイミー」のような赤い一筆があったり、見れば見る程、絵の中に色んな懐かしい情景やモチーフが浮かび上がって来て、やっぱりすごい絵だな、と思った。正直、この展覧会の目玉であるルドンやマティスよりも、この作品が見たくて今日ここに来たのだ。
「同じ時代を生きる人」としてこの人の作品をみることができたのはわずか2ヶ月足らずだったのだな。今はもう、「亡くなった人の作品」としてこの絵を眺めるのだな。この先も何度も。

四方の壁に架けられた9点の絵画に囲まれて、ぽつんと座っていたら、なんだか夕方の青山墓地で、たくさんの墓石に囲まれて一人立ち尽くしているような気持ちになった。たくさんの遺作、たくさんの不在。

100万回生きたねこ (佐野洋子の絵本 (1))

100万回生きたねこ (佐野洋子の絵本 (1))