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90億の神の御名

この世界のほんの些細なこと

遠いジャスコ

埼玉に住んでいた頃、近所に宮岡昇という歌人が住んでいて、母が彼の主宰する短歌の会に入っていた。
「山の麓でぶどう園を営む地主のおじさん」としか思っていなかったのに、角川短歌賞を受賞していて、本も何冊か出していると聞いて驚いた。

今、短歌とは―宮岡昇評論集 (樹液叢書 (第6篇))

今、短歌とは―宮岡昇評論集 (樹液叢書 (第6篇))

母と私は家ではこっそり彼のことを「ノボル」と呼んであれこれ話題にしていたのだけれど、ある日、母が感慨深げに言った。
「ノボルがさ、こないだロシアに旅行に行ってきたんだって。で、言うの。『僕は今までいろんな外国を旅行して来ましたけど、どこに行っても、まずその土地の土を握ってみるんです。僕は農民だから土を握ればそこにどんな作物が育つかわかる。そこがどんな土地だかわかるんです』って。」
こたつに座って、土を握る仕草を真似ていた母の姿ごと、強く印象に残っている。

それは私には一生できない、その土地の理解の仕方。プロフェッショナルだな、地に根付いた生き方だな、力強いな、と羨ましく思った。

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前の記事にも書いたとおり、宛もなくふらふらと旅に出ていた若かりし日の私たちは、出発すると必ず誰かが「あ!ヤベ!あれ忘れた!」と言い出し、「じゃ、どっかでジャスコ行こうぜ」と一致団結していた。
都会を離れれば離れるほどジャスコやイオンは駐車場も含めて、何かの要塞かと思うほど巨大なものになっていく。そしてまた都会を離れれば離れるほど、道路看板の表示距離数も異常なものになっていく。「ジャスコ○○店、この先30km
「30kmで看板出すっておかしくないか?」と、毎回お約束の会話をしながら、「ああ旅に来た!」と実感した。
新潟、徳島、島根、浜松・・・あちこちのジャスコに着くたびに「ジャスコ着いた!デカい!」と浮かれて車を降りるが、別に売っているものは何も変わらない。どこも大抵、2階に本屋、CD屋、ゲームコーナーがあって、入り口には焼き鳥屋台なんかが出ていて、調子にのりすぎた子供がお母さんに叱られて大泣きしていたりするだけだ。
ただ、そうやってジャスコに行くと何故だか、その街に足跡を残したような気持ちになって、観光地を眺めるよりもずっと強く記憶に残った。

今回の奈良旅行で、友人はまたも言いだした。「あ、あれ忘れた!」
じゃあ、ジャスコ行きなよ、と言ったら「ジャスコ、もうねえよ。イオンになっちゃったんだよ」と言われて、なんだか面白くない。イオンねえ・・・。イオンか。なんか、語呂が悪いんだよな、「イオン行こう」ってさ。
ふくれっ面の私の前に、まるでららぽーとか赤坂プリンスみたいな展望台を乗せた巨大なイトーヨーカドーが現れる。「ヨーカドーだ!こんな巨大なヨーカドー初めて!」
それですっかり元気になって、ヨーカドー2階の婦人服売り場で用もないのに幾つも幾つも帽子を試着したりしながら「遠くにきたな」と実感する。
友人もここへ来て旅気分になったのか、満足気に「そういや、倉敷でもヨーカドー行ったな。福島の時もあれ、ヨーカドーだったか?」とかつての思い出を語りだす。


ノボルはもう亡くなってしまった。ジャスコはもうなくなってしまった。
ノボルのようにカッコよく、土をつかんで、その土地を理解したり、思い出を心に刻んだりできない私たちは、ただこうして、見知らぬ土地のショッピングモールで見慣れたものを眺めながら、ささやかな思い出を重ねていくだけ。
駐車場を出た後の夕焼け空が綺麗だったとか、屋上駐車場をはしゃいで走ったことだとか。どこでも出来るような思い出を。