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90億の神の御名

この世界のほんの些細なこと

強い物語

すぐれた作家というのは無数の読者から「どうして私のことを書くんですか?」といういぶかしげな問いを向けられる。(中略)
おそらく読者は物語を読んだあとに、物語のフィルターを通して個人的記憶を再構築して、「既視感」を自前で作り上げているのである。(中略)
物語の中に「自分自身の記憶」と同じ断片を発見したとき、私たちは自分がその物語に宿命的に結びつけられていると感じる。
けれども、それはほんとうは「自分自身の記憶」などではなく、事後的に、詐術的に作り出した「模造記憶」なのである。
「強い物語」は私たちの記憶を巧みに改変してしまう。
物語に出てくるのと「同じ体験」を私もしたことがあるという偽りの記憶を作り出す。
その力のことを「物語の力」と呼んでよいと私は思う。
          内田樹の研究室「1Q84読書中」より


両親を連れて「風立ちぬ」を見てきた。両親には若干不評だった。私はまだ、まるで整理のつかないまま、ぼんやりと自分の中で何かがつながっていく感触だけを感じていた。映画流にカッコよく言うなら「風が吹いている」ような。

『風立ちぬ』を見て驚いたこと - sombrero-records.note

この記事を読んで、ある程度、自分の気持ちの着地点は得た後で、youtubeで映画の予告編を見て、あれ?と思った。それは兎にも角にも、見る人にメロドラマとメッセージ性の先入観を植え付けようと躍起になっているように見えたのだ。

「風立ちぬ」というタイトルから当然予測される、結核と薄幸の美少女、陳腐な出会い、今、関東大震災を話の中に取り込むこと、不景気、貧乏、病気、震災、戦争、という、今とそれほど世相の変わらない時代を描くこと、「当時の若者はそんな時代をどう生きたのか」というありふれたボディコピー、その上での「生きねば」というキャッチコピー、荒井由実の「ひこうき雲」、「ジブリの大人向け映画」という触れ込み、宮崎駿が初めて自分の作品で泣いただとか、彼ももう歳だから、これが最後の作品になるのではないかと世の中が大声で囁く噂話。わざわざ予告編の最後でクローズアップされる「震災の時」という台詞。

「予告編が一番面白かった」という映画の多い昨今、にも関わらず「広告代理店がお客さんが入るように都合よくまとめただけじゃない?」という、斜に構えた見方もできないまま、なんだか予告編が必死で嘘をついているような、違う出口に案内されるような、不思議な気持ちになった。
もちろん、予告編に出てくるエピソードは全て本編に盛り込まれている。盛り込まれているけれど、震災を含め、どれもそれほど重要なシーンではないように思える。予告編を見た人が胸に抱く映画への先入観と、実際の本編の視界が20度くらいズレているような気がする。

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そのズレは、私が物語に投影した個人的な記憶とのズレなのかもしれないけれど。

最近「美しさ」について考えていた。先日横川に行った。映画の中で軽井沢に向かう電車は、ついこの間私が見てきためがね橋を渡って行った。「風が吹いている」という言葉に、読んだばかりの「風が強く吹いている」という小説の事も思い出した。ところどころに差し込まれる、紅の豚ラピュタで見たような風景、ポニョに出てきたような水の動きに、それらの作品の思い出も胸をよぎる。

そうして自分の胸の内の様々なものを吹きあげる強い風が吹いて、まるでこの映画を見るためにこの1ヶ月があったのではないかと、物語と宿命的に結び付けられているような気にさえなった。

予告編は執拗に「美しいメロドラマ」であり、辛い時代を生き抜くメッセージであるかのように訴えかける。
素直にそのメッセージを受け取って「泣けた」と言う者も多いだろう、メロドラマとして見たい者はメロドラマとして見ることができ、泣きたい者は泣き、仕事で忙しい者は我が身と重ねてプロジェクトXのように見るだろう。「駄作だね」「ジブリも落ちたね」と言いたい者にはそのようにも見えるだろう。陳腐にも、奥行きがあるようにも、宮崎駿のラストメッセージにも、諦念にも、そして「自分自身の物語」にも見えるだろう。

それだけの許容量のある作品だったと思う。見たいように見ればいい、言いたいように言えばいい、そう言えるだけの「強い物語」だった。
もう1回、もしかしたら、2回、3回。しつこい私は見に行くんだろう。映画館に。