90億の神の御名

この世界のほんの些細なこと

やさしい手

小さな子供と接することがほとんどないので、道を歩いていて子供が駆けてきたり、ぶつかってきた時に上手によけたり、受け止めてあげたりすることが下手くそだなあ、と自分で思う。お父さんやお母さんに申し訳なさそうな顔で「すみません」と謝られるけれど、私も「すみません、下手くそで」と困った顔になってしまう。子供のいる友人なんかはごく当たり前に、とても自然で優しい仕草で子供を避けたり受け止めてあげたりする。あの手を見ると「お母さんの手」「優しい手だなあ」と思う。

前に、電車で隣に座ったおじさんが、足を大きく広げて二人分くらいの幅をとって座っており、その上、腕組みをした肘が時折私にぶつかるので「なんて尊大な人だ!」と心の中で憎々しく思っていた。
ところが自由ヶ丘駅で、白い杖をついたお母さんと、その手を引く小学生の男の子が乗って来た途端、おじさんは車両の誰よりも早く立ち上がって大声で「ここに座りなさい!」と言って去っていった。二人分の幅をとっていたからもちろんお母さんも男の子も座れた。おじさんの大きな声に一瞬ビクっとした男の子は、すぐに笑顔でお母さんを見上げてこっそり「優しいね」と言った。

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あの時、私はとても恥ずかしくて申し訳ない気持になった。おじさんはいい人だったのに、早合点して「図々しいおっさんめ」と思っていた事も、あんなに素早く反応できなかったことも。

例えば電車で誰かが気分が悪くなって倒れた時や、目の見えない人が近くにいた時、私が「あっ!」とびっくりしているあいだに、咄嗟に手を伸ばして支えてあげたり、誘導してあげたりできる人がいる。別に介護や看護の資格や経験がある感じでもない、ごくごく普通の男の人や女の人だ。
そうやって咄嗟に出された手はいつも優しさに満ちた形で、その人の背中や腕に添えられている。それはまるで、子供を上手に受け止めるお母さんの手みたいに自然で、いつも「いいなあ」と思う。
咄嗟に手を伸ばせなかった自分の鈍臭さを恥ずかしく思いながら、もしも、差し出せたとして、自分の手はあんなに自然に優しい形で人に寄り添えるんだろうか、とも考えてしまう。

今朝、バスに乗ろうと並んでいたら、後ろから白い杖の人が来て、近くにいた女の人がすぐに背中に手を添えて「お先にどうぞ」と押してあげていた。バスに乗ったら、今度は座っていたおじさんが立ち上がって、白い杖の人の肩に手を置いて「座って下さい」と言っていた。
その手はやっぱりどちらも優しく寄り添う形をしていたから「いいなあ」と、「今日、この人たちにいい事がたくさんおこりますように」と思った。

優しくできる手になりたい。