90億の神の御名

この世界のほんの些細なこと

知恵の木の実

それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです。
                     旧約聖書 創世記 第三章五節


外国の本や映画で、無邪気にリンゴを丸かじりしてはポイと捨てるシーンに遭遇する度に、その無邪気さに憧れ、羨ましく思ってきた。それで一度試しては見たけれど、なんとなく落ち着かないし、食べにくいし、齧ってしまったらまるまる1個を食べきらなければならないし、という事で避けているうちに、いつの間にかリンゴは「切って皮を剥かなければ食べられない果物」になっていた。リンゴ飴すら敬遠した。

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前の職場で、会社宛に頂いた巨峰をおすそ分けしてもらった時、山形から来た同僚ごっさんは「あー、ぶんどだあ」と嬉しそうに言って皮ごと口に放り込み、種すら出さなかった。
・・・あ、あの、ごっさん、皮と種は?、と恐る恐る尋ねると「うちの方じゃそんな面倒くさいことしません。種も丸飲みです」とにっこり笑った。そうなのかー、ぶどうの産地の人達はそうやって食べるのかあ、と感心して試してみたけれど、どうも上手く飲み込めなくて、結局ちまちまと皮をむき、そうっと種を出す食べ方に戻った。

恥ずかしいので最近は残すようにしているけれど、本当はエビフライの尻尾もバリバリ食べちゃう方だし、鮭の皮も残さない。だけど、それをすると「あれ?尻尾は?」と驚かれるので、残すようにしている。
そんな私の更に上を行くのが、高校の同級生のオザワ君で、彼が食べたあとの魚は猫がまたいで通るどころか、猫がまたぐ物すらない。頭も尻尾も中骨すらもバリバリと食べてしまうのだ。おかげでオザワ君はもちろん骨太な男だ。これにも憧れたけれど、流石にそこまで試す勇気が出なかった。

ある日、居酒屋でお通しに出されたそらまめを、友人タキコは皮ごと食べた。鞘じゃなくて、中の豆が一つ一つ着ている洋服みたいなちょっと固めの皮。
え!タキコ、この皮食べちゃうの?と聞くと、タキコはキョトンとして「え?食べんの?食べんさいよ、アンタ!」と言う。で、試してみたが、これもやっぱり、うーん・・・という感じだった。
でも、憧れてはいるのだ。「まるまる食べるのが、本当の食べ方なんじゃないのか」とか「いつの間にか、ナイフがなければリンゴを食べることもできなくなったように、自分は甘えてひ弱になっているんじゃないのか」という思いがいつもちょっと頭をよぎるのだ。

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星を見に行った翌日、福島のリンゴ園に立ち寄った。おじいさんがお父さんから継いだというリンゴ園には陽光、王林、フジがなっていて、陽光の赤はとても美しい。フジは色味は地味だけど、味はとてもおいしい。王林は香りがとてもよかった。陽光を木から一つ取らせてもらった後、おじいさんは言った。
「お姉さんね、それ、ちょっと拭いて齧ってごらんなさい」
シャツの裾で拭くと、リンゴは「ああ、イブもこれを食べずにはいられまい」という程に艶々と光り輝いた。それで久々にリンゴを丸かじりして「アップルのロゴみたい!」なんてはしゃいだ。


アダムとイブは知恵の木の実を食べたら、自分たちが裸でいることが恥ずかしくなった。知恵の木の実だと言われるリンゴをしゃくしゃくと丸かじりしながら私は、上に書いたようなことをずっと思い出して考えていた。
「皮ごと食べるか食べないか」「食べていいのか、いけないのか」「まるまる食べてしまうことは恥ずかしいことなのか、それともそれができないひ弱さが恥ずかしいことなのか」「環境の違いや文化の違い」
そんなことに気を取られてしまったら、もう、そこは楽園ではなくなるのだな。そりゃあそうだな。