90億の神の御名

この世界のほんの些細なこと

本と料理と男と女

「美食家」なんていう肩書自体が胡散臭いが、ブリア・サヴァランは言う。

「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人間であるかを言いあててみせよう。」
「禽獣はくらい、人間は食べる。教養ある人にして初めて食べ方を知る。」
「食卓こそは人がその初めから決して退屈しない唯一の場所である。」

北大路魯山人はこうだ。

「味に自信なき者は料理に無駄な手数をかける。」
「低級な食器に甘んじているものは、それだけの料理しかなしえない。この料理で育てられた人間は、またそれだけの人間しか生まれない」
「料理は自然を素材にし、人間の一番原始的な本能を充たしながら、その技術をほとんど芸術にまで高めている」

ちょっと殴りたいですね。

お料理、ご飯、台所について書かれた文章が好きだ。
山田詠美の「ベッドタイムアイズ」では、警察に連行されるスプーンの前で、「お肉が食べたかったんだよお」と泣くシーンから、今まで食べたソウルフードを次々と思い出すシーンで、悶絶するほど肉が食べたくなったし、向田邦子の「阿修羅のごとく」の冒頭で四姉妹が金槌で割った鏡餅を揚げ餅にする連携プレーや忙しない感じに「うまいなあ」と思った。よしもとばななが「キッチン」や「なんくるない」で描いてみせる厨房の感じも好きだ。
田辺聖子に至っては、真似をして作ってみたくなる料理がとても多い。

孝夫はお酒を飲まないくせに、粕汁が好きである。粕汁のせいで、色白の顔がぽっと赤らみ、瞼も薄赤くなって、まつ毛の長さがよくわかる。そういう、なまめかしい男の顔ががっしりした方の上にのっているのは、ふしぎな魅力で、私を飽かせないのだった
                田辺聖子「返事はあした」

もう十年ほど前にこの文章を読んで、不思議なほどに粕汁に取り憑かれ、毎冬のように作るようになった。昨夜も粕汁を鍋いっぱいに作った。
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いろいろ試したけれど味噌仕立てが好きだ。

食べ物についての文章と言えば、魯山人池波正太郎も有名だし、村上春樹の小説だって「村上レシピ」なんて本が発売されているくらいだ。

村上レシピ

村上レシピ

でも、なんていうか、ちょっといけ好かないんだよな、これ。
「コンビーフのサンドウィッチ」とか「柔らかい白いパンにスモーク・サーモンとクレソンとレタスがはさんである。パンの皮はぱりっとしている。ホースラディッシュとバター(海辺のカフカ)」とか「パンは新鮮ではりがあり、よく切れる清潔な包丁でカットされていた。とかく見過ごされがちなことだけれど、良いサンドウィッチを作るためには良い包丁を用意することが絶対に不可欠なのだ(世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド)」とか、村上春樹の小説に出てくる料理は「こだわりを表すカッコいい小道具の一つ」で、ものすごく抑制されてコントロールされた生活のイメージがある。
魯山人はうるさい。池波正太郎はちょっと時代が違うせいか、あまり魅力を感じない。

でも男の人はまるでブリア・サヴァランや魯山人の如く「食べることは生きること」だとか大上段に構えて言うのが好きだ。池波正太郎の茄子の漬物の紫に溶き芥子の黄色なんていう取り合わせに「粋だね、オレ!」とか心ときめかせたりする(そのくせ漬物だけじゃ満足しない)。
村上春樹のレシピに傾倒して「紀伊國屋によく調教されたレタスを買いに行った」だの「ハードボイルド・ワンダーランドのあのサンドウィッチが俺の理想」だのと飲み屋でドヤ顔で言う。

そんなのがどうにもいけ好かない。
田辺聖子の「愛の幻滅」にある「私は、戸外で食べるお弁当には、持論があるのだった。高野豆腐とか、おでんの大根のような、汁けの多い、煮含めたものを持ってきておくとおいしいのだった」とか、この小説に出てくる「千鳥」という焼き物のお店の描写の方がずっと心を鷲掴みにする。

結局、男の人の料理の文章は「他所行き」なのよ。外でカッコつけるためにあるのよ。家に帰ればお母さんの料理が大好きなくせにさ。
・・・なんてぶつくさ思いながら、粕汁を飲む。はー、おいし。 

返事はあした (集英社文庫)

返事はあした (集英社文庫)