90億の神の御名

この世界のほんの些細なこと

みんなとおなじ

田舎に帰省してた友人のタキコが帰ってきて、居酒屋で冷奴つつきながら言う。
「帰りにな、母ちゃんがいっつも弁当持たせてくれるんよ。母ちゃんの弁当、茶色くて、昔はあれが嫌で嫌で仕方なくて、やめてくれって散々母ちゃんに言ってたんだけど、今食べると美味しくて嬉しくてね。毎回汽車の中で泣いてしまうんだわ」

いい話じゃない、と答えながら、私も母親のお弁当のことを思い出していた。
うちの母のお弁当は別に茶色くなかった。むしろみんなが「母ちゃんの弁当ってなんで茶色いの」と意気投合してるのが羨ましいくらいだった。でも不満はあった。
中学校や塾の教室ではいつもどこかから「お母さんが箸入れ忘れた」とか「またこれ入ってる。入れんなって言ったのに!」といった、母親への不満の声が聞こえてきたものだ。
どうして子供って、母親のお弁当に必ず文句をつけるものなんだろう。弟たちだって「あんなんじゃ足りねえよ!」だの「ミニトマトでスペースを稼ぐな」だのとあれこれうるさく注文をつけていた。

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これは、炊飯器と一緒にもらった母からの差し入れ。豆腐の容器が二つ重ねてくっつけられていて、中には手作りケーキが入っている。
あの人は昔からこういうやり方をする人で、遠足のお弁当も「帰りに捨ててこれるでしょ」とか言って、クッキーの空き箱に詰めたりした。中学生の頃はそれがとても嫌だった。お弁当の包みをあけて「紅茶クッキー」と書かれたクッキーの空き箱が出てくればみんなびっくりして「え?まめのお弁当ってお菓子だけ?」なんて言いだすし、先生にも「お前、どうしたんだ」と心配されたりする。それで逐一「いえ、中身はお弁当です」と愛想笑いして見せなければいけないのが面倒で恥ずかしかった。
ともかく「みんなと同じ」が良くて、お菓子の箱に入ったお弁当箱を渡されると「また?普通のお弁当箱に入れて欲しいんだけど」と嫌な顔をして文句を言った。きっとタキコもそうして「もう少し彩りを気にしてくれ」とお母さんに文句を言ってきたことだろう。

そのくせ大人になった今では、これこそきっと「みんなと同じ」なのだろうが、相変わらずの母のスタイルに胸を打たれて、嬉しくなってしまう。照れ隠しに「なんであの人、わざわざ豆腐のパックを洗ってとっておくのかねえ、ジップロックでいいじゃん」なんて昔と同じように悪態をつきながら、でも顔はにやにやしている。

それで、この豆腐のパックに入れられたケーキをリュックに詰めて、週末はまた青春18切符の旅に出かけている。シナモンのよく効いた、母の好きな味のケーキを電車の中で食べて、二本松の駅で豆腐パックを捨てた。「やっぱ捨てられた方が便利よね」なんてしれっと思いながら。

こんなのって月並みでよくある話だよな、と思うと、じゃあ、あの時憧れた「みんなと同じ」は結局どんなものだったのかしら。むしろ茶色いお弁当や、お菓子の箱のことだったのか、それとも「みんなと同じ」ように母親に文句をつけることだったのか、と、ふと考えてしまった。