声聞くときぞ
びいと啼く尻聲悲し夜乃鹿
これは奈良の鹿を詠んだ芭蕉の句である。
空に響くその声は、おれには「いぎゅううぉん」と聞こえる。どう考えても「びい」には聞こえない。だが、偉大な俳人には「びい」と聞こえたらしい。
万城目学「鹿男あをによし」
10月の奈良で聞いた鹿の鳴き声は「いぎゅううぉん」でも「びい」でもなく、蝶番の油の切れたドアが、ぎいいいいと軋んで閉まる時のような音に聞こえた。
もしかしてこれがあの小説に書かれていた鹿の鳴き声か!と、何度も注意深く耳を澄ませてみたけれど、それはどう考えても魔法使いのお城の扉が閉まる音で、「いぎゅううぉん」とは聞こえなかった。
あの人「鴨川ホルモー」でも変な擬音ばっかり使ってたもんな。きっとなんか感覚の違う人なんだろう、と自分を納得させて、二月堂下の茶店でわらび餅を食べた。その名も鹿鳴園。
台風接近中の夕方、薄暗い空の下の茶店には私以外の客はなく、とても静かで、時折鹿の鳴き声が不穏な感じで鋭く響いた。慣れない私は、一瞬びくっとしてしまうが、お店のおばさんは何事もないかのように平然と編み物をしていた。毎日この声を聞きながら暮らしているのか。それは風流なことだな、と感心しながら、もう一度鹿の鳴き声に耳を澄ませてみるけれど、やっぱり「いぎゅううぉん」や「びい」じゃない。ただ、扉の閉まる音を出す鹿の他に、狐の遠吠えのように「きょーん」と響く声を出す鹿がいる、という発見はあった。
こんな曇り空の夕方に、悲しげな鹿の声を聞いていると、百人一首の「奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の 声きくときぞ 秋は悲しき」という猿丸太夫の歌が心に沁みてくるものだ。
*
宿泊したホテルの冷蔵庫はハイアール製だった。いつか、冷蔵庫を買い換えた時に、お値段が安いので検討していたが、ユーザーレビューがあまりに悪いので候補からはずした冷蔵庫だ。
ハイアールの冷蔵庫は夜、眠ろうとする私の耳元で「いぎゅううぉん」と鳴き続けた。これぞ正に「いぎゅううぉん」だな、と思いながらコンセントを抜いた。やはり、ハイアールにしなくて良かった。
ところで、冒頭の芭蕉の句の中にある「尻聲」と言うのは、別におならのことではなく、長く尾をひいて響く声のことなのだそうだ。
ここ最近、浴室の換気扇がごうごう、きゅうきゅうと長く響かせているあの音が、まさに尻声というやつか。
そろそろヤバいのでは、という不安に駆られつつ、そんな鳴き声を聞く時ぞ、秋は悲しき。
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