90億の神の御名

この世界のほんの些細なこと

美しい感じ

「山路を登りながら、こう考えた。
知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」
という文章で始まる夏目漱石の小説「草枕」を、カナダ人のピアニスト、グレン・グールドはこよなく愛したそうだ。「魔の山」と「草枕」を20世紀の最高小説であると絶賛し、死の床にも書き込みだらけの草枕が置いてあったという。

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丹沢の奥にある、大室山から加入道山を周回するコースに行ってきた。
予想よりもキツい、登り一辺倒の山道を、一歩一歩登る。
裾野ではまだ木々が綺麗に色づいていたけれど、上に登れば木々もすっかり葉を落として冬の山の様相だ。

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こうして寂しくなって色味をなくした山道は、つまらない景色と言えばつまらないので、人も少なくてとても静か。
陽のあたる感じや葉の落ちる音、風の渡る音。
この時期の山の風景には、グールドの弾くバッハのぽつぽつとした音がよく似合う気がする。

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漱石は談話「余が草枕」に於いて、「私の草枕は世間普通にいう小説とはまったく反対の意味で書いたのである。ただ一種の感じ---美しい感じが読者の頭の中に残りさえすればよい。それ以外に何も特別な目的があるのではない」と述べている。

美しい感じ。

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登って、下りて、そんなに面白い道でもなくて、ただ「富士山がきれいでしたね」「紅葉も見れて良かったね」と感想を述べ合っただけで帰ってきたのに、こうして振り返ると、そこかしこに「美しい感じ」が散らばっていたことを、遠い日の記憶のように思う。

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その「美しい感じ」はきっと、いつかずっと後になってから、より鮮明に美しく思い出すんだろう。とりたてて面白いことのあった山行というわけでもないのに。

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さながら、本棚の中に眠りつづけていた「草枕」の頁を久々に繰ると、そこに書かれた「美しい感じ」が昔よりもずっと美しく寂しく胸に迫るように。

リトル・バッハ・ブック

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草枕 (新潮文庫)

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