90億の神の御名

この世界のほんの些細なこと

切っても切れない

二十歳の頃、一人暮らしをするにあたって、実家から包丁をもらった。母が、買ったはいいが「切れない」「木屋なのに!」「木屋ももう終りね」「名前負けだわ」と散々悪態をつき続けた木屋の包丁「團十郎
確かに切れないので、そのうち包丁を買い換えたくなった。しかし、どういうわけだか「買い換えたい」と思うのは毎年、年末になってからだった。
そしてハタ、と気づくのだ。この年の瀬に包丁など買いに行こうものなら、今から銀行強盗をすると思われるのではないか「犯人は犯行前に東急百貨店にて包丁を買い求め」とNHKニュースのアナウンサーが粛々と伝える声まで頭の中に流れ出す。それで「仕方ない、年が明けてから買いに行こう」と思ったまま、月日は流れ、またしても年末を迎える繰り返しだった。

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そんなある日、高島屋に吉實という包丁屋さんが来て、包丁研ぎと展示販売をしているのに遭遇した。職人のおじいさんが、研いでる包丁を見せながら「ほら、これは昔は普通の洋包丁だったんだけどね、長く使ってもらって研いでるうちにペティナイフみたいになっちゃってね。それだけ使ってもらえる包丁なんだよ」と得意気に言う。
そして、新聞紙の束に包丁を波形に滑らせて切れ味を見せてくれる。カッターなんかよりもずっと静かで滑らかで鮮やかに、すっと新聞紙が切れる様子にハッとして、すぐに日本鋼の洋包丁を買い求めた。
初めての「ちょっといい包丁」。まるで刀を持つようで、背筋が少しゾッとする。

しかし問題は研ぐ時だ。吉實のおじさんには「店に持ってこい」と言われるが、なかなかそんな時間に東京の下町まで行けやしない。自分で研ぐには自信がない。包丁研ぎをしてくれるお店は近所にないし、昔のように研ぎ屋さんが回ってきてくれるわけでもない。
うーん・・・と悩んでいたら、行きつけのカフェバーの常連でビルケンシュトック勤務の男の子が、元板前の技を活かし、研いでくれるとのことだった。

研いでもらえるのは年末、忘年会中のカフェバーの片隅。それで、包丁を箱に入れてタオルで包んでかばんに入れていく。「今、職務質問されたらもう完全にアウトなんじゃないか。銃刀法違反になるんじゃないか。「飲み屋で研いでもらう」なんて下手な言い訳だと警察に疑われるんじゃないか」
相変わらず、そんな悩みで頭をいっぱいにしておどおどするけれど、「ダメ。それじゃ余計に挙動不審!堂々として!」と自分を励まして歩いた。

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ビルケンくんは「いい包丁ですね」「包丁一本潰すつもりで練習しながら研げばいいんですよ。そのうち上手くなります」と言ってくれた。そして何度もシャコシャコと砥石の上を滑らせたあと、まるで刀鍛冶みたいに目を細めて「ほら、わかりますか?だんだん刃が出てきた」と言った。実は全然わからなかったけれど、「なるほど」と答えた。

「包丁一本つぶすつもりで」の言葉に励まされて砥石を買って、今は時折自分で包丁を研ぐ。でも上手くなっているのかどうかはわからない。相変わらず「刃が出てきた」という状態がどんなものかもわからない。
ただ、年の瀬に包丁を抱えて出歩いたり、包丁が欲しくて思い悩んだりしなくて済むようになったのが良いところ・・・と思いきや、今度はペティナイフを買い換えたくなっているんだよな、この歳の瀬に・・・。
年の瀬と包丁は私にとって、どうやら切っても切れないみたい。


・・・この記事に「月の法善寺横丁」からとって「包丁一本」というタイトルをつけようかと思ったら、既にそんな記事を書いていたことが判明して苦笑い。包丁について語る時、あの歌ははずせないものね。