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声に出して読みたい日本語

声に出して読みたい日本語

昨日に引き続き、本棚の話だけれど、祖父が亡くなってしばらくして、両親と一緒に祖母の家に行った。祖母の家の本棚には曾祖母が好きだった浮世絵や歌舞伎の本、それから祖父が凝っていた水墨画の本が並んでいる。その中に真新しい「声に出して読みたい日本語」という本があるのを見つけた。
「おばあちゃん、この本買ったんだね!」と言ったら、祖母は笑って「そうなの。おじいちゃんが死んじゃったから、一日誰とも喋らないでしょう?そうするとね、だんだん声が出なくなるのよ。だから時々朗読するようにしているの」と言った。がらんとした家に祖母の声が響いている所を想像したら胸が詰まった。
祖母は今でも、時々あの本を朗読するようにしているのだと言う。

今日は、そんな祖母と一緒に日本橋三越に行ってきた。「自分一人じゃなかなか外にでないから」「最近お買い物もしていないから」と言うので、「それじゃあ、デパートで綺麗なものをぶらぶらながめてお茶をしましょう」と。
ご飯を食べて、売り場を眺めて、それからまた座ってコーヒーを飲んで。二人だけで出かけたのは多分初めてだと思う。だからだろうか、祖母は普段は滅多にしない、戦争中の話、祖父との新婚時代の話、父が小さかった頃の話を始めた。
「この頃、具合が悪くて臥せっていたりするとね、昔のことを色々思い出すのよ。そしてね、まめちゃんにもおばあちゃんの女の一生の話をしておこうと思って」
祖母の口から出た「女の一生」という言葉は、祖母の人生への自負や後悔や時代背景をも感じさせて、生々しく重く聞こえた。

それは当然の事ながら、父の口から聞く祖母の姿、家庭の姿とは若干の齟齬がある。そこに父がいたなら、「そうじゃない、あれはなんとかでかんとかで」と逐一訂正が入っただろうし、祖母もきっとそんな話はしなかっただろう。あくまで祖母の立場で、祖母の視線で見た、祖母の人生の話なのだ。

よくwikipediaなどで、誰かの人生に関するエピソードのあとで「本人はこう言っているが実際にはそんなことはなかったようだ」などという注釈が載っていることがある。
でも今日、祖母の話を聞いてしみじみと思った。そんな注釈の必要がどこにあるだろうか、と。
人が死に近づいて、自分の人生をまとめ出す時に、自分の望むまとめ方をして、それが事実と違っているからと言って、そんなこと逐一指摘する必要なんてないんじゃないか。周りは黙ってそれを受け止めて、送り出せばいいんじゃないか。

その後で、祖母は自分の財産について、死に近づいていくにあたってどのようにしたいかについて、唐突に話し始めた。
人は永遠に生きるわけじゃないから、自分だって、人生の片付け方をちらっと考えないわけでもないから「何言ってるの、まだまだでしょう、そんな話やめて」とは言えずに、黙って聞いていた。
こうやって、だんだんとお互いに心の準備をしながら送っていくんだな、と思った。

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家庭用品売り場で、開け閉めの感触のいい茶筒を二人で「これはいいわねえ」と何度も開け閉めして、一つづつ買ってきた。「今日は早速これにお茶を入れて飲みましょう、いつもより美味しい気持ちがするかもね」と言って別れた。
祖母の家の台所に今、この茶筒がそっと置いてあるのかな、と思うと、やっぱり少し、胸が詰まる。