90億の神の御名

この世界のほんの些細なこと

Still Alive

サタデーナイトフィーバーはStayin' alive。
それは「生きている」ことと「まだ生きている」ことの違いなのかしら、どうかしら。

昔、家に画集が2冊だけあった。多分父が廃品回収あたりで拾ってきたのだ。1冊は竹久夢二。もう1冊は東山魁夷。廃品回収に出されるくらいなので、よくある安っぽい肌色の表紙のついたぺらぺらの画集だった。
竹久夢二のは物憂げな顔をした女の裸がどーんと描いてあるので、ドキドキしながらそっと眺めた。東山魁夷の絵は、多分、「私の窓」という作品とその他何枚かのガラス瓶を描いた絵だった思う。ガラスって絵に描くことができるのか、となんだか驚いて、それからこの画家が生きているということにもっと驚いた。画家や音楽家なんてものはみんな死んでいるものだと思っていた。
この人は今も生きているのかと思いながら立膝をついて、膝に顎をのせて、他に見るものがないからずっと画集を見ていた。あの薄暗い家からいつだって逃げ出したかった。

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2つ年下の弟とはあの家で一緒に暮らしたけれど、私が14の時を最後に会わなくなって、どうしているかもわからないまま20年近く経ち、数年前に再会した。突然我が家を訪れた弟は、昔と変わらない雑種の犬みたいに情けない顔で「いや、父親が“もってあと2年”って言われてるからさ。一応知らせとこうと思って。もしかしたら会っておきたいかもしれないし。父親は会いたがっているし」と言った。
弟との再会は嬉しいけれど父親には会いたくない、と言ったら「そうだよね、でも昔みたいに暴力をふるったりはもうできないよ。ずいぶん痩せたしね」と彼は言う。そんな姿だって見たくもない。あの人が死んだ後に後悔するとも思えない。

そう思いつつも、小学校時代の友達に会えば、そこの家のお母さんに「私も同じような経験があるけれど、やっぱり会っておいた方がいいんじゃないかって思うの」と諭されたり、「とりあえず向こうが会いたがっているなら、死ぬ前にあってやるのが大人の器というやつか」なんて事も考えて、考えて、考えて「じゃあ、会ってみようかな」と決意した矢先、弟の結婚が決まった。

結婚するからには弟としても、長年生き別れた母に会っておこうと思ったようで、「母と息子の再会」があった。それはドラマなどでよくあるような「綺麗な再会」「感動的な場面」だったから、私はなんだか父に会うのがとても嫌になってしまった。父はきっと泣くだろう。泣いて女々しいことを言うだろう。でも私はその手をとって感動的に泣いてやることはできないし、許すといってやることも、きっとできない。それなら何故会う必要があるのか。

そうして「やっぱり会わない」と決めたまま今日まで来た。「もってあと2年」と言われた2年はとうに過ぎた。弟から「父親が死んだ」という連絡はまだ来ない。あの子はきっとまた雑種の犬みたいな顔で言うんだろう。「一応知らせておくけど、昨日の朝死んだから」とかそんな口調で。
時折、夜眠る前や、朝起き抜けの布団の中で考える。「まだ生きてるのか」

まだ生きていると、いろいろと考えなくてはいけない。会うべきか会わなくてもいいのか、それは逃げていることなのか、おとな気ないのか。
考えるのが面倒くさくなって、早く死ねばいいのに、と思うこともある。あの人が死んだら何かが片付くような気もするし、何も変わらないような気もする。
目につくもの、耳にする様々なものが運命的にメッセージを告げているような気がすることもある。

小学校時代の同窓会が近いのも、久しぶりに東山魁夷の名を聞いて、あの家で立膝をついて眺めた画集を思い出したのもきっとそのせい。

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直接過去と相対するのは嫌だから、言い訳のように遠回りに、過去を覗き見するような気持で昨日は山種美術館東山魁夷を見に行ってきた。まだギリギリやっていたから。あの時まだ生きていた東山魁夷はもう死んでいる。
昔、画集で見た絵はなかった。わざわざ昔の記憶なんて掘り起こさなくてもいいのに、昔見たあの絵はなんだったのか無性に気になって、図書館に画集の予約を入れてしまったりする。あの家の薄暗さを思い出しながら。

帰って昼寝から目が覚めたら、小学校時代の友達から「この前おじさん見かけたよ」というメールが来ていた。
あの人はまだ生きている。だからこんなに面倒くさい。
もしあの人が死んでも、私は生きているから、きっとこれからも面倒くさい。