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90億の神の御名

この世界のほんの些細なこと

映画の絵

何年か前、朝、たまたまつけたテレビで「水曜どうでしょう」の鈴井貴之氏が自分が監督した映画について「あの映画の中では画面のどこかに必ず電線や電柱などの人工物を入れたかった」と言っているのを見た。
映画ってそういう風に撮るものなのか、と思った。
NHK総合「ホリデーインタビュー」に鈴井貴之さん登場!(感想など): 賽は投げられた

リュック・ベッソンの「レオン」のビデオに同梱されていた解説には、「冒頭、マシンガンで穴をあけられたシャッターから差し込む光が美しい」と書いてあった。映画ってそういう所を見るのか、と思った。

前々から気になっていたカイユボット展。「行きたいって言ってたよね」と知人が招待券をくれたので、喜び浮かれて行ってきた。

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解説で「複数の視点が一つの画面に交錯する」とか「写真的な構図」なんて書かれているけれど、そのせいだろうか。
この人の絵ってまるで映画みたいに見える。見ていると話し声や食器の音やBGMがすごく自然に「必要なもの」として頭に浮かんでくる。写真ではなくて映画。

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この絵の横に小説家のユイスマンスの書いた「近代芸術」という本の原書が置いてあって、「現代生活の時を止めた瞬間」とこの絵を絶賛している。「後ろ向きの妻の無言の圧力、二人の関係は冷えきっていることが容易にわかる。話しかけても妻はそっけなく答えるのみであろう」などという想像物語も書いてあって、それは私の頭の中にあった物語とまるで同じものだし、きっと他の人の頭の中に浮かぶ物語とも同じなんだろう。

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この絵だって光の加減も構図も映画に見える。鳥の声と水の音がする。

どの絵も必ず次の場面に移動する気がする。「これで完結」の止まっている絵に見えない。風景の絵だって、鶏肉の絵だって、キャストロールが自然に入ってきそうだったり、暗転して場面が舞踏会に変わったり、カメラがロングになって全体が映されて物語が始まっていく感じがしたりする。

どうしてそんな風に見えるんだろう。他の人の絵ってどんなものだった?・・・と思っていたら、同じ印象派ということで比較の為にモネの絵が並べられていた。
やっぱりモネの絵は止まってる。例え洪水の絵でも夕暮れの絵でも、次の場面はない。このまま完結してる。一緒に展示されていたカイユボット弟の写真だって止まっている。
それなのにカイユボットの絵は、流れていく映画の中で、ふと挿入される、計算されつくした何気ない一コマみたいに意味ありげに存在している。

不思議、不思議、すごく不思議・・・とじっくり立ち止まって見るのではなくて、まるでパラパラマンガをめくるみたいに、パッパっと見て、3周くらいぐるぐる回った。
こういう風に見る絵もあるのか。
こういう、映画みたいな絵もあるのか。
この人が映画風なのか、映画がこの人風なのか、「映画らしく見えるテクニック」ってものがあるのか。
そうやってこの人や映画監督が描こうとするものは、あくまで、誇張された、映画の中の現実であって、実際の現実生活とは違うのかどうか。

美術館の外に出て、まるで映画やドラマみたいにキラキラと光る東京の夜景の中、現実感を見失ってふわふわした。


絵画は全てこちらのサイトからお借りしました。
ギュスターヴ カイユボット|印象派を支え続けた、もうひとりの印象派|Caillebotte.net