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90億の神の御名

この世界のほんの些細なこと

ホテルをめぐる冒険

旅・散歩 泡沫

「なかなか良さそうなホテルじゃない」と彼女は言った。
「良さそうなホテル?」と僕は聞き返した。
「こぢんまりとしていて、余計なものもなさそうだし」
「余計なもの」と僕は言った。「君の言う余計なものというのはしみのついてないシーツとか、水が漏らない洗面台とか、調節のきくエアコンとか、やわらかいトイレット・ペーパーとか、新しい石鹸とか、日焼けしてないカーテンとか、そういうもののことなんだろうね」
         村上春樹 「羊をめぐる冒険

美輪明宏さまは仕事上、ホテルに宿泊することが多く、そうすると窓にたくさん霊が群がるので「出て行け!」と一喝するのだと、いつかテレビで言っていた。やはり宿泊施設などには寂しがり屋の霊たちが集ってしまうのだと。おお、恐ろしい。

修学旅行なんかの前には必ずクラスの誰かがしたり顔で言ったものだ。「ホテルの部屋に絵がかかってたら、その裏を確認したほうがいいよ。絵の裏に御札が貼ってある部屋は出るんだって!!」
何をバカな事を言っておるか、とクールな顔でやりすごしたが、実はクールではなくて本当に怖いだけであった。怖いので知りたくないし聞きたくない。「私は霊感がないから大丈夫」と自分に言い聞かせ、決して絵の裏など確認しなかった。

でも、一度だけ確認をしたことがある。
あれは確か2003年頃、青春18切符で電車を延々乗り継いで行った下関、ネットで予約した駅前の安いビジネスホテル。ロビーに入ろうとして驚いた。・・・このホテル・・・本当にやってる・・・?
薄汚れた自動扉はまるで半年洗車していない車のフロントガラスのようだったし、フロントの脇には使われなくなった看板等の残骸と、曲がってこれも埃をかぶったゴムの木が押しやられて置いてあった。フロントはもちろんあのチリンと押すベルが置いてあるが鳴らせども誰も来ない。やっと来たと思ったら、ヤクザかと思うようなおじさんで、鍵はよくあるオレンジのプラスチックがついた古いタイプ、エレベーターはいつ止まってもおかしくない年代物、部屋は猛烈に煙草臭くカーテンは西日で色あせていた。

ただでさえ、はるばる東海道線から山陽本線を乗り継いでここまで来て、心細さに頬を引き攣らせていたまだ20代の私。明日、生きてここから出られるのかしらと、落ち武者のような惨めな気持ちで部屋の入り口に立ち尽くした。
それでも日が出ているうちはまだ良かった。問題は日が沈んでからだ。怖いので時々画面の歪むブラウン管テレビを大音量でつけっぱなしにした。薄暗くくすんだバスルームの扉を閉めるのも怖くて、扉を開け放してシャワーを浴びた。今夜は電気を消しては眠れないなと思った。そして、ふと壁に架けられた絵に目を留めてしまった。こんな時に限って、あの中学校時代のクラスメイトの言葉を鮮明に思い出すものだ。御札なんてありませんように!祈るような気持ちで額の裏を確認したが御札はなかった。
それでほっとして「私は霊感がないから霊など見えない。絶対に見えない!」と言い聞かせて、でも電気はつけっぱなしで眠った。もちろんまるで眠れず、何度も時計を確認しながら朝を待っていたのだけれど。

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あれ以来、村上春樹の「羊をめぐる冒険」のいるかホテルのくだりは、必ず下関のあのホテルの光景に置き換えて読んだ
あれからいろんな宿に泊まって古い施設や薄汚れた施設、ラブホテルを改造したんだな、というような所もあったけれど、あの下関のホテルより怖い所はなかった。

先週末、福島に一人で一泊旅行をして、郡山の宿をネット予約した。なんと素泊まり一泊3800円だ。ネットで見た写真もそんなに悪くない。でも、あの下関みたいなことがあるから油断はできないなと、内心怯えていたのに、狭いながらもホテルも部屋も清潔感に溢れていてフロントのお兄さんも感じがいい。女性用アメニティなんかも用意してくれる。
いい気分でシャワーを浴びて、ビールを飲みながら女子バレーを観戦し、惜敗にあーあーとか言いながら壁に目をやったら当たり障りのない絵が架けられている。
・・・こんな感じのいいホテルに3800円で泊まれるなんて、誰か死んでるとか何か裏がある?あの絵の裏に・・・と一瞬考えそうになったがすぐにやめた。そんなこと考えないほうがいいに決まってるもの!


下関のあのホテルは今やもう改装されてずいぶん綺麗になっているらしい。口コミの評価もまずまずのようだ。まるで「ダンス・ダンス・ダンス」でいるかホテルが近代的なドルフィンホテルに生まれ変わってたみたいな話だ。
別に冒険のあても、友達や羊を探す予定もないけれど、いつかまた、何かに呼ばれたようにあの下関のホテルに行ったりするんだろうか。

羊をめぐる冒険

羊をめぐる冒険


ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

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