90億の神の御名

この世界のほんの些細なこと

はじめに言葉ありき

昔、父親が写真に凝っていて、家に「アサヒカメラ」のような雑誌がたくさんあった。それで私と母は暇にまかせてページをパラパラとめくりながら、他人様の投稿写真を高みの見物で「写真撮る人ってどうしてこんな題名つけるの?」「いつもタイトルで台無しなんだよ」などと、わあわあ注文をつけていた。
最近では少ないようだけど、その当時は「久遠」だの「悠久」だの「無限の宙(そら)」だのと、墓石のようなタイトルをつけられた写真がとても多かったのだ。

しかし、考えてみれば別に名前がどうであれ、その写真が変わることはない。
かのジュリエットだって言っていたではないですか。
「名前がなんだと言うの?私たちがバラと呼ぶあの花は、たとえ別の名で呼ばれても、やはり甘く香ることでしょう」

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夏に福島県立美術館若冲展に行った際、常設展でワイエスの「松ぼっくり男爵」という絵を見た。もう、そのタイトルに一瞬にして心を奪われ、「ま、ま、松ぼっくり男爵!松ぼっくり男爵だって!ワイエス、すごい名前つけるな!!」と大興奮して友人を呆れさせた。興奮のあまり、絵葉書を買い求め、またこの絵が描かれた背景についてもあれこれ調べた。

先日は三井記念美術館で「桃山の名陶」展を見てきた。茶道や器にまるで心得がないのだけれど、そこで見た瀬戸黒の「冬の夜」という茶碗がとても美しかった。黒の中にいろんな色が入っていて、「冬の夜」という名がぴったりで、周りを三周くらいして眺め、ミュージアムショップにこの器の写真があったら買っていこうと思ったけれど、なかった。瀬戸黒ではこの器よりも「小原女」という器がとても有名でネット上にも写真もいくつもある。けれど「冬の夜」はない。
これが小原女。

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それで、考えてしまったのだ。
私はあの時「小原女」よりも「冬の夜」の方に心を奪われた。どうしても「冬の夜」の方が美しく見えた。でもそれは名前のせいなんじゃないだろうか、と。
「松ぼっくり男爵」の絵だって、もしも他の名前だったら、ただじっと眺めて通り過ぎたんじゃないかと。
振り返ってみれば、自分はいつだって物事を「言葉」で捉えてきたんじゃないか、言葉でしか捉えられなかったんじゃないか。映画だってきっと台詞を見ていた。だからあとで必ず原作や評論や制作意図を読まないと落ち着かなかった。グールドのピアノが好きなのもきっと、グールドが饒舌に言葉を語るせい。
私はずっと、「そのもの」を見て来なかったんじゃないかしら。
バラの花も、あのアサヒカメラの写真たちも、例え違う名前でも中身はまるで変わらないというのに。