90億の神の御名

この世界のほんの些細なこと

闇の中

最近各所で流行中の自由律風に言うなら、「暗闇では、なにもかもが怪しい」

いつかの春、ほどよく酔っ払って鼻歌交じりで桜並木を歩いていたら、木と木の隙間におばあさんがひっそりと座っていて、「ひいい!!」と息を飲んだ。もちろん彼女はただ、夜桜が見たいという風雅な思いでそこに座っていただけだろう。しかし、大変申し訳ないが、桜に心を奪われ放心状態のおばあさんというのは、限りなく霊に近い。

また、劇団勤務時代のある休演日。最低限の明かりしかついていない劇場のトイレの奥の暗闇から絹を裂くような悲鳴が聞こえて飛び出したこともある。これも何のことはない、トイレの向こうに楽屋口があって、そこで女優さんがhihiEの音を出す練習をしていたのだ。「絹を裂くような」という表現が的確である事を知ったのはあの時だ。

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アイソン彗星が見たくて見たくて震えながら、未明の街を自転車で疾走する。
高台の栗林の隅にアンブッシュして、双眼鏡で狙いを定めていたら、ゆっくりゆっくりと足をひきずるように歩いてきたおじさんがびくっと震えた。

すまない。さぞかし驚いたことであろう。こんな時間の栗林の中に、携帯電話の明かりに照らされた人の顔がぼんやりと浮かび上がったなら。
しかし、私も若干おじさんを薄気味悪く思っていた。おじさんの歩き方はまるで街を彷徨う行き場のない霊のように見えた。

公園で空を見上げる日には、キイキイと不気味な音を立てる自転車でやってきて、暗闇の中おもむろに奇妙な動きの体操や懸垂を始める男性もいる。バットを振る者もいる。一瞬、身構える。きっとお互い様だろう。
『双眼鏡を虚空に向け、「ああ」とか「おお」とか奇声を発する、厚着のため性別不詳の生き物』
怪しくないわけがない。

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けれど、朝日が射し始めた途端に、つい先ほどまで怪しかった懸垂おじさんも素振り少年も荒い呼吸の犬も奇妙な体操をするおじさんも皆、「早起きをして人生をイキイキと楽しむ健全な存在」に姿を変える。
アイソンはまだ見つからないが、朝日は美しい。
ハヴァナイスデー、怪しかったみんな。

藪の中 (講談社文庫)

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