90億の神の御名

この世界のほんの些細なこと

真っ白でいるよりも

近所のスーパー銭湯は元旦の早朝から営業していた。何も元旦から…と思ったけれど、「新年の一番湯に入りたい」という人たちで賑わうのだそうだ。
一番湯かあ…。私はちょっと苦手だなあ。もちろん一人暮らしだから、家で入浴する時は常に一番湯だけれど、銭湯なんかでは、もう少しこなれてから入浴したい。

住居もそう。「誰が住んだかわからない家は気持ちが悪い、絶対に新築じゃないとイヤ」という人も多いけれど、ある程度、人に住まわれてこなれた家がいい気がする。特にアパートなどで新築だと、施工ミスの可能性もないわけじゃないし、初めての台風や雷でどんなトラブルが起きるかもわからない。雨風に吹かれる中を耐えてきて、経験値のある家がいい。

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城ほどじゃなくとも

本だってそうだ。同僚の可愛らしい女の子は「私、図書館やブックオフの本てダメなんです。誰が触ったかわからないし」と言う。父方の祖母も同じ理由で眉をひそめる。
それから「中古の嫌なところは、傍線がひいてあったり、書き込みがあったりするところだよな。あれがあると一気に読む気失せるわ」という人もいる。

けれど私はそこがいいと思う。なにせ妄想気質なので。
図書館で借りてきた本に傍線がひいてあると「ええ?ここってそんなに大事?こんなとこに傍線引いてて、ちゃんとしたレポート書けてるの?」と心配したり、こういう傍線は大抵、本の始めの方にばかりあって、途中からは引かれていないので「あら、気合い入れて読み始めたのに諦めたのね。私の方が粘り強く読んでる!」と勝ち誇ってみたり。

裏表紙に蔵書印が押してあれば「耳をすませば、みたい!」とときめくし、買った日や「父より」なんて一言が書いてあると、どんな理由で手放したのか、どんな家庭のどんな本棚に収められていたのか思いを馳せる。

それから、本の隙間に挟まれていた誰かの手紙は、その本の内容以上に忘れられないものだ。
高校時代、文化祭の古本バザーに出されていたサン=テグジュペリの「夜間飛行」には、親戚のおじさんらしき人から若い男子学生宛の手紙が挟まれていた。何か悪いことをしているような気持ちになりながら、バザー会場の隅でこっそり読んだ。手紙の内容はよくありがちな「○○くん、入学おめでとう」から始まる、人生の先達からのエールで、自分だって高校入学時にこういうメッセージを人からもらわなかったわけではないけれど、なんだか無性に羨ましかった。

この前図書館で借りたミヒャエル・エンデの「モモ」の隙間には小さな女の子が描いたらしいお姫様の絵が挟まれていて、微笑ましかった。
ブックオフで買おうか迷ったスヌーピーのマンガには「全然面識ないのにマイミクになってくれてありがとう。これからもよろしくね」という痛々しいメッセージカードが挟まれていた。
ああ、これ、一度も読まずにブックオフに出したんだろうな。確かにマイミクになっただけで、面識ない人から本送られたらビビるよな…と切ない気持ちで本棚に戻した。
そして福田恆存訳の「ヴェニスの商人」とパウロ・コエーリョの「ヴェロニカは死ぬことにした」を買って帰ってきた。

その「ヴェニスの商人」には、何か外国の切符のようなものが挟まれていた。

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「ST-LAZARE」と書いてある。調べてみたら、どうやらパリにある駅らしい。
この本はパリに行ってきた本なのか、と一気に嬉しくなった。いい本買った。得しちゃった。
ほらね。新刊だったら「パリに行った経験が書いてある本」は買えても「誰かの旅行鞄に入ってパリに行ったことのある本」は絶対に買えないでしょう。
やっぱり私はまっさらなものよりも、ちょっとこなれた、誰かの気配のあるものが好き。

タイトルは谷川俊太郎の詩集から。

真っ白でいるよりも

真っ白でいるよりも