90億の神の御名

この世界のほんの些細なこと

なんでも食べてやろう

きのこの食べ方 - 90億の神の御名

昨年の秋、つい出来心できのこ中毒にかかった人の食べ方を調べてしまい、老人たちの繰り出す「ゴルフ場に生えていた」「自宅の庭に生えていた」「種類はわからないが食べてみた」というものすごい冒険心にひどく打ちのめされた。
・・・なぜ・・・。
なぜ、それを口に入れることができるのか!!これが戦争を越えてきた者の強み!?

山友達のおじさんは、もう定年退職をしていて、これからもっともっと山に登りたいからと、秋ごろまで山梨で一人暮らしをすることにしたらしい。そうして毎日山に登るのだそうだ。近況を伝えるお手紙にはこう書いてあった。
「インターネットもまだ引けず、どこにスーパーがあるのかもわからないので買い物ができません。仕方なく昨日は近所に生えているイタドリという草を食べました」これ↓

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待って。待って待って待って。車あるじゃん。車でちょっと走ればスーパーくらい探せるじゃん?それじゃダメなの?そりゃ「イタドリ」って聞いたことはあるけど、道端に生えてる、それは本当の本当に食べられるの?
・・・と、私は焦るものの、おじさんにとっては子供の頃から慣れ親しんだ行為であるらしく「子供の頃、遊んでいて喉が乾くとイタドリを折って齧ったものです」と言う。そして、その後の山行の際には「あった、あった、ほら、コレだ。これがイタドリだよ。まめさんも食べなさい」と差し出す。
いやあ・・・いやいやいや、結構でございます、わたくし。
丁重にお断りしながら「これか!!きのこ中毒に陥る老人たちの“山で見つけたきのこ、食べちゃお!”っていうエモーションはこれなのか・・・」と戦慄していた。

でも考えてみれば、それが当たり前の行動で「その辺に生えているものが食べられる」環境は、とても恵まれている健全な環境なのだろう。例えそれで何かの中毒に陥ったとしても、それはきっと仕方のないことなのだ。
ひ弱な甘ったれの私は、誰かが手間をかけ、苦労をして育てた「綺麗な」野菜しか口にすることができなくて、本当はイチゴ狩りのイチゴですら「洗ってから食べたい・・・」と思ったりする。そのことの方がきっと異常なのだ。

今じゃ賞味期限なんてほとんど気にも留めないけれど、一人暮らしを始めたばかりの頃は、賞味期限の切れた食べ物は怖くて絶対に口にできなかった。もしもお腹を壊した時に、誰も助けてくれないと思った。
10年位前、ベランダ菜園ブームにのっかって、ベランダでネギと春菊を育ててみた。あまりきちんと手入れもせず、気づけば春菊にはびっしりとアブラムシがついていて、ゾッとしてそのまま捨ててしまった。ネギはそれなりに育ったけれど、いざとなると「これは本当に食べ物か?私の育てたものが食べられるなんて、そんなワケある?」と不安になって、結局食べられなかった。
あの時にしみじみと思った。
「私には生産はできないのだな。消費しかできない。おとなしくお金を払って野菜を買うしかないな」

そんな風に思っていたけれど、盆栽に興味を持ち始めた頃、恐る恐るブロッコリースプラウトを育ててみた。水栽培ならなんだか清潔そうだし、食べられるかもしれない。

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いける!!そう思ってアルファルファも始めた。

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それから、しそとコリアンダー

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サラダにするならベビーリーフがあった方がいいよね、三つ葉も楽ちんみたいね、と今はベビーリーフと三つ葉も育成中だ。
そして口にするたびにしみじみとしている。
「この私が!!自分で育てた草を食べているだなんて!そんなことが出来るようになっただなんて!」
これならそのうち道端の草やきのこも食べられるようになるかしら・・・。いや、それはさすがにちょっと無理かな・・・。

願わくば戦争や災害に見舞われず、「無理、食べられない」なんていう甘ったれのまま生きて、死んでいけますように・・・と願うひ弱さをどうか許して。

何でも見てやろう (講談社文庫 お 3-5)

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