90億の神の御名

この世界のほんの些細なこと

柘榴・馬鈴薯・蕎麦・そして絵画

子どもの頃、ある日突然父親が不思議な果物を一つだけ持って帰ってきた。丸くて、茶色くて、裂け目を覗くとまるで歯のようにルビー色の粒々が並んでいる。
柘榴を見たのはそれが初めてだった。
「おいしいねえ!」と食べていたら、父親が「この果物を使った比喩表現に“頭が柘榴のように割れる”というものがある」と不吉なことを言い出した。
え!?と仰天しつつ、まじまじと柘榴を見つめて「さもありなん」と妙に納得もした。それ以来どうも柘榴と「頭が柘榴のように割れる」という言葉が私の頭の中では完全にセットになっている。
奈良の東大寺二月堂前で地面に叩きつけられた柘榴を見た時も、最近流行のザクロジュースを見た時も、必ず思い出すあの言葉。

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仕事の忙しい友人から「これ、頂きもののチケットだから行ってきて。そして私の代わりに見て感想を教えて。チケットくれた人にそのまま伝えるから」という指令と共にいくつかの美術展のチケットを譲り受けたので、まず年末は東京都美術館ウフィツィ美術館展を見てきた。
このなんとも発音しづらそうな美術館はフィレンツェルネサンスメディチ家だそうです。(なんとなくその3語だけでわかったような気になる愚かなワタクシ)
そしてさすがフィレンツェルネサンスメディチ家なだけあって、どーーーーーんと派手で、とにもかくにも「神様!」「マリア様!」「聖母子様!」という勢い。そしてたくさんの絵の中で幼いキリストやキリストを抱くマリアはその手に不思議な果物を持っている。

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何かと思ったら、それは柘榴で「受難の予兆」なのだそうだ。・・・さもありなん、と深く納得。
あの果物の激しい割れ方はやはり人に不吉な何かを予想させるんだろう。

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年明けは三菱一号館美術館のボストン美術館ミレー展へ。
説明文の中に「日本人に深く愛されたミレー」という言葉があったが、展示された最初の絵を見て「おお!これは愛されるわ」と実感する。
フィレンツェルネサンスメディチ家だったウフィツィ美術館展の絵に比べて、まず絵の中の光がとても暗い。時代も背景もいろいろ違うだろうけれど、ともあれこれがイタリア人とフランス人の気質の違いってやつかしら。それに、木漏れ日だとか夕暮れだとか、宗教と違って日本人にもわかりやすいモチーフ。これは愛される。愛され画家だな。

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ミレーと言えば「種をまく人」
この人を見るたびいつも楽しそうだなと思っていたけれど、解説には「力強く地面を踏みしめる」と書いてある。そうか、軽快なステップではないのか・・・。
発表当時この絵は相当物議を醸したらしい。なんでも当時はウフィツィ美術館展の絵のように宗教画が主流だったのに「農民をまるで英雄のように描いている!」と怒られたんだそうだ。そうかしら、そんなに英雄かしら。

怒られて、ミレーは言ったそうだ。「馬鈴薯を植える仕事が他の仕事よりも低俗だなんてどうして言えるんだ」
そのコメントを読んでしみじみ思った。「馬鈴薯を植える人や種をまく人を描くことがどうしてそんなに問題なんだ」
思うに、大昔の人にとっては新聞も写真もないから大きな絵が出来上がるって言ったらそりゃもう一大事で「何かありがたいものが描いてあるに違いねえ、ああ、ありがてえありがてえ」と思って出かけたら「なんだよ!馬鈴薯植えてるだけかよ!俺もやってるよ!」っていうがっかり感なんでしょうか。

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展示の最後はミレーの「そばの収穫」
この絵の前でおじさんが大きな声で言っていた。「あっちの人もそば食べるんだな!よし昼は蕎麦にするか!!」
んもーう、おじさんったら大声でデリカシーないわね!・・・とか思いつつも、おじさんの言葉のあとにこの絵を見ていたら、まんまと蕎麦が食べたくなり、夕飯は蕎麦にしたのでした。
ま、年越しそばも食べてなかったしね。ホント、おじさんの言うとおりフランス人もそば食べるのかしらね。

振り返れば美術作品を見るたびに、いつも結構食べ物の事が気にかかっている。
食べ物の事ばかりが。