90億の神の御名

この世界のほんの些細なこと

帰りたい

この前、日本科学未来館プラネタリウムで「夜はやさしい Tender is the night」というプログラムを見た。

谷川俊太郎が監修したもので、東京湾の夕暮れの景色から始まって世界の星空に飛び、その星空の下の生活の音や生き物の声の中、麻生久美子がナレーションと詩の朗読を担当する。
冒頭の東京湾の夕暮れのシーンからもう胸が切なくなり、ミュンヘンの星空の下で街の喧騒を聴いたときには、どこかへ帰りたいと強く思った。

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こういう気持ちを簡単に表す単語は「ノスタルジー」だ。
その言葉を出すだけで、誰もがちょっと甘く切ない気持ちを共感したりする。
wikipediaによるとこの言葉は「1688年にスイスの医学生・ヨハネス・ホウファーによって新しくつくられた概念」だそうで「故郷へ戻りたいと願うが、二度と目にすることが叶わないかも知れないという恐れを伴う病人の心の痛み」を表すらしい。

これは病気の症状だったのか。
                    
f:id:mame90:20151207083844j:plain日渡早紀ぼくの地球を守って」より

春先から祖母の具合が悪くなって、実家に引き取ったが認知症の症状が進み、7月に介護施設に入った。
8月に祖母に会いに介護施設に行ったら、初めは笑顔で普通に話していた祖母が何かの拍子で豹変して、「帰りたい」「帰らせて」「連れて帰って!」「ここで死んでしまう」「死ぬよ!」と吠える姿に凍りついた。
すぐにスタッフの人が飛んできてにこにこしながら「今日の朝ごはん、おいしかったねえ」と話しかけると、途端に祖母も何もなかったかのような笑顔で「そうねえ」なんて答える。
でもしばらくしてスイッチが入るとまた喉の奥からドスのきいた低い声を出して「帰りたい」「死んでしまう」と吠え始める。
あの可愛らしい女の子のような祖母はこんな声を出せたのか。
その週末はずっと「帰りたい」というあの叫び声が耳から離れず、眠れないままにパソコンに「帰りたい」という言葉を打ち込んだ。

検索してみると「帰宅願望」は認知症にはよくある症状らしく、施設から家に帰りたいという願望もあるし、自宅にいても「家に帰りたい」と言い出すこともあるとのことだった。よくあると聞いて、こっそり安堵した。
この帰宅願望と向き合うことは介護の上で非常に切実な問題のようで、傾向や体験談、対策についてたくさんのサイトが見つかる。「不安があるから帰りたいのだ」「帰れないと言う言葉をかけると不安が増すので良くない」「話をそらしたり、なぜ帰りたいのかを尋ねたりすると良い」ということが多くのサイトに書いてある。

殆どの人がこの先に避けて通れない認知症という病気。
大人だけれど子供のように戻ってしまう、でも大人。
そのパラレルワールドの中で叫ばれる「帰りたい」という言葉は、一般的に使われる「ノスタルジー」という単語から呼び起こされる甘さや切なさとはかけ離れている。言葉本来の意味合いからは正しいのだろうけれど。

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なぜ帰りたいのか。
その問いかけに認知症の老人たちはなんて答えるんだろうか。
自分の頭の中にある、記憶と願望とが入り混じった物語を語り出すんだろうか。

なぜ帰りたいのか。
そう聞かれたら自分はいったいなんて答えればいいんだろうか。
なぜ、なぜ、みんな
どこだかわからないどこかに帰りたい不思議な気持ちになるんだろうか。

プラネタリウムの中、「夜はやさしい あたたかい夢のおふとん おやすみ ひとりで おやすみ ひとりで おやすみ」と麻生久美子がぽつぽつ歌う。
その声にノスタルジーをかきたてられ、「どこかへ帰りたい」と甘く切ない涙を流す一方で、頭の中にあの日の祖母の「帰りたい」という低い叫び声が蘇ってくる。
懐古でも望郷でもない、郷愁や追憶でもない、もっと逼迫した強い要求。
「故郷へ戻りたいと願うが、二度と目にすることが叶わないかも知れないという恐れ」を強く抱いた人の吠えるような声。
なぜ、なんて問いかけることもできないほど激しく。