90億の神の御名

この世界のほんの些細なこと

春霞

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菜の花を見ると必ず「菜の花畑に入日薄れ見渡す山の端霞み深し」という唱歌を思い出す。
あの歌を習ったのは小学校5年生の春だ。
5年生からは音楽の授業が音楽室で行われる。
休み時間に忙しなく「次移動だよ!」なんて友達と口にすることで、まるで大人になったような気がしたものだ。
それに音楽室の黒板には五線譜が書かれていて、その周りにはどこの音楽室も大抵そうであるように眼力の強いバッハの顔、変なカツラをかぶったハイドンのおすまし顔の肖像画なんかが飾られてあって、その目に見つめられながらの授業は「トクベツ大人」な気持ちだった。

その教室での最初の授業があの「朧月夜」の歌だった。
今思えば当時の印象よりきっとずっと若かったのだろうけれど、10歳か11歳の私たちには「老婦人」のように見えたカンノ先生が背筋をしゃっきり伸ばして歌詞の解説をしてくれる。「春は霞がかかって山の端がぼんやりと見えるもの、ほら、あの山を見てご覧なさい」と窓の外の丹沢連峰を指差したので、私たちは一斉に窓の外を見た。
確かにぼんやりとして見えたけれど、それはいつもの当たり前の光景で、それが春特有のもので、人に春を感じさせるものだなんて思ってもいなかったから「そうなのか・・・」と丹沢の山々を見ていた。

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土曜日、1年ぶりに山歩きをしてきた。
湯河原の幕山という600mくらいの山で山の麓は梅林になっている。ちょうど今週が梅もピークだろうということですごい人出だった。
梅だけならまだしもこぶしも菜の花も、オオイヌノフグリタンポポハコベもすみれも咲いているので、ああ、もうすっかり春なんだなあと実感する。

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「もっと晴れていたら富士山も見えるし、真鶴半島の姿も初島もくっきり見えるんだけどなあ」とぼやく山友達のおじいさんに、「でもこの霞んだ感じが春ですねえ」と言ったら、おじいさんは驚いたように「ああ、そうだ!春だ!本当に春だねえ」と答えた。

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おじいさんはいったいどんな春を思い出したんだろうか。
私はあの、すこし薄暗い音楽室にいた5年生の春。
なんだか不思議になるくらい、あの時のことをはっきりと思い出せる。丹沢が遠くに霞んでいたこと。

毎年春になると、約束を守るようにきちんきちんと花を咲かせたり、芽を出したり忙しなく動き出す草花に少しおどろきながら、そのたびに、去年の春のこと、そのまえの春の事、ずっと前の春の事を思う。
そうして、たなびく春霞の向こうに見え隠れするように、ずいぶん昔のことを突然はっきりと思い出したり、ついこないだのことをすっかり忘れてしまっていたりする

・・・なんてまるですっかりおばあさんみたい。
久々の山歩きのおかげで今日、足腰がギシギシと痛むのもおばあさんみたい。

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