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90億の神の御名

この世界のほんの些細なこと

思い残し切符

イーハトーボの劇列車

イーハトーボの劇列車

去年の秋、井上ひさしの戯曲「イーハトーボの劇列車」を見てきた。井上ひさしが敬愛する宮沢賢治の生涯を描いた作品だ。
この物語の中に「思い残し切符」というものが出てくる。
芝居の途中途中で突然に車掌が入ってきて、切符を渡すのだ。
「今、二十八歳の詩人の卵が心臓性肝硬変症であの世へあっけなく旅立ちました。これはその人からの思い残し切符です」
「昨四月一日丹那トンネルで崩壊事故が発生し、十六名の死者が出ました。そのうちのひとり、十八歳の若者からの、これは思い残し切符です」

車掌は毎回風のように去っていき、賢治は呆気にとられている。「あなたは何者ですか」「思い残し切符とは一体なんなのですか」と尋ねるも車掌は答えない。
いよいよ賢治自身が死期に近づいた時、車掌が現れ、別の人に思い残し切符を渡し、賢治に向かって「あなたにはありません」と言う。賢治はかすかに笑って「わがってる」と答え、思い残し切符を受け取って面食らっている人に説明をする。

「思い残し切符です。おれも三回ばかりもらいました。はじめのうちは何のことだかちっともわからなかった。このごろようやくこの切符の意味がわかりかけてきました。たとえば思いがけない事故で電気工事夫が死ぬでしょう。彼はとっさに「いま死んだら、小学1年生の末の娘はどうなるのだ。ああ、あの娘のことを考えると死ぬに死にきれない」と考え、思いを残す。その思いが切符となって、生きている人間に伝えられる。その切符についてたったひとつ、たしかにわかっていることがある。それはね、切符を受け取った人間は、すくなくとも三年か四年は決して死ぬことはないってことです。」

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近所のクリーニング屋さんに何故だか「雪割草」というのぼりが立っているのが、数日前から気になっていた。
盆栽や山野草に興味の湧いた今年になるまで知らなかったが、春の雪を割っていち早く咲く雪割草は江戸時代からもてはやされ、愛好者も多く、1月2月は全国あちこちで雪割草の展示販売会があるのだと言う。それで連休初日、ぶらぶらとひやかしに行ってみた。

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店先から庭先、庭の中、縁側、二階の屋根の上まで、夥しい数の雪割草の鉢が並んでいる。これが雪割草か。いろんな種類があるんだな、と見ていたら、「興味ある?」とお店のおじいさんが出てきた。そして情熱的に説明をしてくれる。
曰く、交配によって様々な種類の花ができる、親株は10万もするものだ。自分の母親がその株を新潟で買ってきたことをきっかけにどんどん株を買ったり交配させたりしながらここまできた。これが親でこれが子供。同じ兄弟でもこんな風に違う花が咲く。人間と同じなんだ。

雪割草は強い花で、種でどんどん増えるらしい。ただし種から育てて花が咲くまでに少なくとも3年はかかるのだそうだ。種を蒔いてから1年後のものを見せてもらったが「1年でこれ?」と言いたくなるほど小さな双葉だった。2年目のものでもまだ弱々しい。だからこそ、3年目、ようやく花が咲いた時、親に似ているけれども違う顔の花の姿を見ることができたときの喜びはひとしおなのだそうだ。

また今年も種を採るんですか、と尋ねたらおじいさんはちょっと目を逸らして「もう種は蒔かないんだ」と言った。
オレは本業は洗濯屋だもの。鉢も増えすぎてしまったもの。これ以上手が回らないもの。なかなか引き取ってくれる人もいないもの。

確かに、イングリッシュガーデン流行りの世の中、雪割草を求める人はそう多くないだろう。しかもどうやら安い花じゃないみたいだし。それに、おじいさんの年齢と、雪割草を育てるのにかかる時間を考えたら、もうそろそろ新しい命を増やせないんだろう。面倒が見れないから。
「ねえ、安くしとくからさ、持って行きなよ。このカゴに6鉢入るから。6鉢入れておくとちょうど倒れないから。どれでも好きなのを選びなさいよ」
一鉢だけ頂いていこうと思っていたのだけれど、断りきれず6鉢、オマケの1鉢と合わせて7鉢を連れ帰ってきた。

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無骨な親指で肥料を土に押し込んで「これで肥料もいらないから。何かあったらいつでも聞きにきていいから。倒さないように気をつけて持って帰って」と孫を里子に出すようにして渡された雪割草。

ああ、これはまるで思い残し切符だ。思いを託されたのだ。
ベランダにしゃがみこんで、いつまでも雪割草を見つめていた。