90億の神の御名

この世界のほんの些細なこと

夢の国技~初相撲観戦①~

大学時代の友人つるちゃんは昔から相撲好きだった。「相撲=デブが裸でぶつかり合う、これが国技だなんて」と思っていた当時の私は「なんと酔狂な」と呆れていたものだが、相撲に興味が出始めた途端、私の中でつるちゃんが師匠に変わった。
9月に久々につるちゃんと会った折、「最近相撲好きなの。いろいろ教えてね」と言ったら、つるちゃんは快く頷き「初場所誘うよ!」と言ってくれた。そして11月、そんなつるちゃんからメールが来た。
初場所のチケットの先先行予約が始まるんだけど行く?」
行く行く!!もう発売なのか、そして先先行があるのか。驚きつつ自分の都合の良い日を告げると「その中だったら、中日がいいね」とプロっぽい発言を残してつるちゃんはチケット予約に挑んでくれた。チュウニチじゃない。ナカビだ。そうか、ナカビはやはり大事な日なのか。

しかし先先行は惜しくも敗れ去ったらしい。そんなに相撲のチケットって大人気なのか、と驚く。それからしばらく経って「まめ、なんとかC席ならとれたよ。本当は初めてならA席あたりで見せてあげたかったんだけどごめんね」と連絡が来た。
返す返すもプロっぽい発言だぜ。初心者はA席あたりがおすすめなのか。そして相撲のチケットというのは日本シリーズのチケット並にとりづらいものなのか。もう行けるならなんでもいい!

チケットを受け取ったのは12月、大学時代の友人たちと忘年会をした折だ。ウキウキとお金の受け渡しをし、「私の携帯待受は栃煌山なのよー」「おおーすごいー」と浮かれるつるちゃんと私のことを周りの友人たちは「なんと酔狂な」という目で見ていた。

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こちらがつるちゃんのお気に入りの栃煌山、通称シャケ。理由は解説の北の富士勝昭氏が簡単に土俵外に運ばれる栃煌山に「シャケじゃないんだから」と苦言を呈したことによる。

ドキドキの観戦前日、つるちゃんからメールがくる。
「まめ、明日は何時に来る?私たちは朝10時半には会場入りするけど無理強いはしない。でもできれば午前中から来て」
おおおお、相撲が朝からやっているのは知っていたがやはりそんな時間から!私も気合を入れねば!と午前中入りを目指したのだが、何分初めて行く国技館。電車を乗り間違えて反対方向に。どうもJRって苦手だよ。そして東京のあっち側って全く土地勘なくてわからないよ。
おろおろしながら両国駅に着くとホームに相撲取りらしき人がいるので「よし、間違いないな」と安堵する。

改札を出ればどどーんと横綱優勝額が架けられているので更に「ここだわ。ここ」と確信を持つ。

見えてくる、はためくのぼり、すれ違う外国人観光客の群れ。「ついに来た!」と実感を深める。
それにしても恐ろしい場所だよ。
チケットを受付してくれる人も中の警備員もどれもこれもが全員元相撲取りらしき人達なんだもの。あんな警備員相手に暴れられるわけないわ。

入り口にはこんなパネルもある。ひゃー、これが国技館かー、と思いながらうろうろと席に向かうと、既に観戦中のつるちゃんの隣には彼女の相撲友達まるちゃんもいた。
驚いたことに二人は昨日もここに来ていたらしい。そして明日もここに来るらしい。な、なんすか、あなた方は。記者ですか、タニマチですか…。慄く私に彼女たちはケラケラと笑って「いやあ、案内しなきゃいけない人がいたり、行けなくなった人からチケット譲られたりいろいろあって、場所中は結構通いつめてるのよー」と言う。絶句。
これはもうただの相撲ファンではない。相撲案内人だ。プロだ。そんなプロ達に「お腹がすいた」と訴えるとすぐさま「じゃあ、館内を案内がてらちゃんこでも食べに行く?」と連れだしてくれる。

ここが売店。手形色紙も売ってるの。相撲カフェや力士とツーショットが撮れるプリクラもあるの。これはひよの山グッズ。この卓上カレンダーはおすすめよ。チケット発売日や場所の日程が全部書いてあるからね。缶ビールは1階はキリンのみ、2階にはアサヒも売ってる、とプロの説明は淀みなく続く。
ちゃんこを売っているのは地下の大広間で、普段は記者会見をしている場所らしい。ずらっと続く列が会計に近づくと「あ、250円を用意してね」とすかさず有難い助言。あなた方、もう案内人としてお金取った方がいいよ、ホント。

これが250円の玉ノ井部屋特製ちゃんこ。今日は中華味。食べながらも解説者たちはいろいろと教えてくれる。
曰く「相撲界は鳥推しなのよー、手をつかないから」との事。鳥推し?手をつかない?…はてなをいっぱい頭に浮かべていると「四ツ足の動物は手をついているでしょ?相撲は手をついたら負けだから、ゲン担ぎで鳥なの。ちゃんこも基本は鳥ベース」とフォローが入る。…なるほど奥が深い。
いやあ、温まったね、この後は入り待ちに行くからコートを取りに席に戻ろう、と言われるがままに戻ろうとする道すがら、出会うのは大島親方。元旭天鵬

ほ!本物!!!本物の旭天鵬!デカい!すごい!と驚く私をプロたちは「握手してもらいな」と優しく送り出してくれる。したとも、握手!デカい手だった。ものすごくトキめいた。
それから入り待ちへ。あっち側が見やすいよなどと腕を引かれるままに。
阿夢露
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嘉風
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そして元琴欧洲鳴戸親方。超イケメン
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写真がブレブレなのは許して下さいね。なにせ初めて間近で見る相撲取りと言うのは予想以上に動きが早い上に予想以上にデカくてすぐにカメラに入りきらなくなるのです。
つるちゃん、まるちゃんのプロ二人は入り口にチラと相撲取りが見えるたびに「◯◯関来た!」と教えてくれ、周りの入り待ちの人たちに「栃煌山関はもう来ましたか」と問いかけられれば「今日まだ見てないんですけど煌山関はいつも入りが早いのでもしかしたらもう…」などと懇切丁寧に教え「◯◯関頑張って!」と声をかけ、更には「あら!高安関のお母さん!」との衝撃発言。
待って!!待って、待って。お母さんって一般人だから。お母さんがわかるって普通じゃないから。ど、どういうことなのあなた達。「高安関のお母さんと撮った写真もあるよ。お母さんはフィリピン人なんだよー」と得意げなまるちゃん。

寒さと衝撃に震える私に二人のプロは告げました。「あ!幕下土俵入りがもうすぐ始まっちゃう!まめ、走るよ!!」
この時点で私、これはアレに似ているんだと悟りました。アレ。JRでもう少し先に行った所にある夢の国、ネズミーランド
ファストパスとろ!」「パレード始まるから!」「あ、ミッキーいた!!写真撮ろう!」
あのノリだ!!でも超楽しい!
ネズミーランドは苦手だけど、この夢の国で振り回されるのはものすごく楽しくて嬉しくて、大はしゃぎ。
国技館万歳!・・・という訳で観戦記はまだ続きます・・・。

けっこう毛だらけ

何かの記事で読んだのだけれど、人間、本当に好きなものや興味のあるものに関しては、放っておいても自動的にそれに関する情報をキャッチするようになっているらしい。
情報が欲しくてTwitterやらネットやら検索したりとするけれど、わざわざそんなことしなくても自動的に。
そう言えば高校の先生が言っていたっけ。
「見る、目に入る、というのはもうそれだけで愛情なのです。愛情がなければ見たものを意識すらしない」
それはそうかもしれないな、と教室の片隅でぼんやり思ったティーンネイジャーの頃も今は昔。
時が経つにつれて若い頃に聞いたあれこれの言葉を実感し始めるものだ。
ああ、これは愛情なのか、と苦しい恋のように眉間に皺を寄せて。

そんな訳で私にはきのこニュースがやたらと入ってくる。目にするたびに「最近飽きてきたかと思っていたけれど、見つけちゃうって事は、なんだかんだやっぱりきのこが好きなのか…」と我ながら驚く。
いわんや毛においてをや。

ちょっぴり恥ずかしいのであの時冗談交じりに公言したが、毛に関する話題がやたらと目につくたびに「ああ、私は相当本気なのだな…」と苦い溜息を吐いて首を振る。

こんな記事を見つけて「ああ、筒香くんは腋毛ないのか」と思ったり、試合中だって菊池雄星がアンダーシャツを着ずに投げるので、腋毛が見えることばかりが気になっていたら、他の人たちも気にしていたので安心したり

菊池雄星が投げるたびに脇毛見せつけてくるんだけど :日刊やきう速報

海外にて「ワキ毛にノリを塗布して、光るパウダーをまぶす」という手法が流行っているというニュースがキラキラとこの目に飛び込んで来たり。

去年は心を閉ざしていたせいか、あまり「毛!!」とは思わずに日々を過ごしたつもりでいる。
しかし油断大敵。人はいつでも恋に落ち、愛に溺れるもの。

巨乳と尻にばかり視線が奪われがちな大相撲、九州場所
まだまだ三役の取組までには時間もあるしと、若干集中力が途絶えてだらだらお茶を飲んでいると、解説の北の富士勝昭氏が目の覚めるような事を言い出す。

「胸毛背中毛がふさふさとしているのは稽古不足の証、しっかり稽古をしていれば擦り切れる!!」

あの時。
あの言葉がタイムリーに耳に飛び込んできたあの瞬間、私はいよいよ覚悟を決めなければならないのだと悟りました。
何をしていても私は毛の話題をスルーできない、これは本気の愛なのだ、と。逃げも隠れもできないのだ、と。

タニマチとして有名な高須クリニックは脱毛で儲けたお金で土俵上に「Yes!」「高須」「クリニック!」と3本の懸賞を掛けてくる。
勝昭は「あれは稽古不足だ」と高安の胸毛を責める。
世間はいつだって男も女も脱毛ブーム。
そんな世間の片隅で、私の日々はけっこう毛だらけ。

魔法の箱

「雫石ちゃん、このところ何してたの?」
(中略)
「それが、TVにはまってしまって、ずっとTVを見ていたんです」
私は言った。
「ああ、そう言えば、福引きで当たったって言ってたもんねえ。あの時の喜びようは尋常じゃなかったわ」
ママはうなずいた。
「そうなの。ばかみたいにずっとずっとTVばっかり観てた」
よしもとばなな王国〈その2〉痛み、失われたものの影、そして魔法 (新潮文庫)

遅ればせながらあけましておめでとうございます。

正月、新しい年をどんな風に迎えたかと言うと、それは先に引用したよしもとばななの小説の如くバカみたいにずっとTVを見ていたのです。
久々にTVのある正月、しかも地上波からCSまでスポーツとスポーツバラエティのオンパレードだ。見るに決まってるじゃないですか。
大晦日、紅白も見ずに早寝をしてニューイヤー駅伝に備え、終わればラグビーを見て、次の日の箱根駅伝に備え、とんねるずのスポーツ王も見たし、侍ジャパンが出た嵐の番組も見たよ。

夏にTVを買ってケーブルテレビに加入してからというもの、私は完全にあの魔法の箱に支配されている。
野球とラグビーワールドカップまでは想定内だった。その後、夏の高校野球県大会が終わって、うっかり大相撲夏場所を見てしまい、「本日の取組」を場所中ずっと録画する生活が始まったが、「あれ、もしかしてヤバい?」と気づいたのはFIA世界耐久選手権で6時間ぐるぐると走る自動車を延々と見続けてしまった時だ。車に興味なんてまるでなかったのに。免許もないのに。
あれでモータースポーツの扉まで開いてしまった。

辛うじて毎年恒例の豊川稲荷への初詣は済ませたものの、moto GPのシーズン再放送もあるし、大相撲もWRCも始まるしこのままじゃ外出できないんじゃないか、更に引きこもるのではないか、と我ながら先行きが案じられる年始だったが、昨日は一大決心をして羽田空港へ行ってきた。

羽田へ向かう途中、京急の車窓から見える景色は箱根駅伝のコース。ああ、前に歩いたな。蒲田の立体交差は電車からだとこんな感じなのか。今年も復路の鶴見中継所は非情の場所だったな、でも青学が早過ぎて復路はちょっとあきてたな、などと正月に見たTVを思い返した。

羽田に来た理由はカフェでダカールラリーの展示をしているってJsports が言っていたから。TVで紹介されたから行ってみる、なんて行動、今まで小馬鹿にしていたというのに。

相撲にハマるまで、正直デブが半裸でぶつかり合うものが国技だなんてどうなのかと思っていたが、見始めると自分が今までこの国技のことを何も知らなかったことに驚いた。
モータースポーツを見始めるまで、日本のメーカーがこんなに世界で頑張っていて、評価をされていることも知らなかった。
ダカールラリーはもうパリ・ダカール間で開催されているのではない、ということも、日野レンジャーがものすごくカッコいいということも。

それから、今思いつきでチケットを買えば国内ならどこにだって行くことができるんだ、ということも。
3連休の昼過ぎ、閑散とした出発カウンターの前を歩きながら、なんだか新しい世界を見たような気がしていた。
あのテレビという魔法の箱は世界中のいろんな競技を見せてくれる。そして「こんな事をしているよ」と私を誘い出す。誘い出されて、行こうとさえ思えばどこにでも行ける。
そう思うとあの魔法の箱もなかなか悪くないな。
来週は大相撲初場所を見に、人生初の国技館へ行ってくる。
TVという魔法の箱に誘い出されて。

ついていかない

4年前にテレビを処分した。当時は震災直後の節電キャンペーンもすごかったし、テレビをつけたところで暗いニュースが多かった。何より我が家は建物の構造上、スカパーの受信ができず大好きなスポーツもほとんどみることができなかった。

しかし、今年の梅雨明け頃、4年ぶりに我が家にテレビが復帰した。
ある日、ポストにピラっと放り込まれた、マンションについにケーブルテレビが引かれるというチラシ。
はっ、これはもしや高校野球ラグビーワールドカップも見れるってこと!?

そして何よりの決め手は、同僚との他愛のない会話で「もう梅雨あけたって今朝テレビで言ってたよ」という一言だった。
私だってスマホで天気予報をチェックしながら毎日天気に気をつけていたよ、でもそれじゃダメか!テレビがあれば梅雨明けを教えてもらえるのか。
いつもみんなの話すCMだの芸能人だのの話題にまったくついていけてなかったけど、これからはついていけるのか。
そんな夢を心に抱いていました。

だがしかし。
テレビが来て半年たった年末、「auのCMの犬、変わったんだよ、桃太郎の犬」と言う上司の言葉を聞いてハっとした。
…知らん。
そればかりか相変わらずお笑い芸人も芸能人も最近の歌もよくわからない。

そうか、テレビがあるからと言って世の流れについていけるワケではないのか。
「ブレスレットつけただけでモテる」、とか「開運ペンダントで金持ちに!」とか「iPhone持てばイケメン」とか言うのと同じような幻想か。

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思い返せば今年はどうも季節事にもイベントにも世間の流れにも乗り遅れ放題の1年だった。
ああ、もう夏も終わっちゃったの?え?シルバーウィーク?あら今日ってクリスマスなの?
そんな気持ちでいるうちに年末がきたけどどうにも気持ちがのらない。

これさえ作れば、と年末恒例の鍋いっぱいのおでんを仕込んで、ちょろちょろっと掃除はした。鮭のいっぱい詰まった冷凍庫とか。
一箇所終わるたびに「もうこれでいいだろ、今年は!」と思いつつも、いや、洗面所が!…などと強迫観念にかられてしまう小心者。

昨日は掃除をしながら横目で2年前の箱根駅伝の再放送を見た。
抜かれて引き離される選手に「無理についていかなくてもいい!!」と、監督が激を飛ばしていた。
そうよね、それでいいよね。
足がとまりっぱなしの1年だったけど、テレビ買っても相変わらず趣味に夢中で他が見えてないけど、無理についていかなくていいよね。

そんな気持ちの大晦日。
夜はおでんそうめん食べる。そうめんだって細くて長いんだからね!世の蕎麦推しに無理してついていかないんだからね。

皆様、どうぞよいお年を。

お前の道を

その昔、「ラストソング」という映画があった。ミュージシャンを目指す若者の青春物語で、いよいよバンドが九州から上京しようとする中、ビビる吉岡秀隆本木雅弘がキメ顔で言うのだ。
「俺がお前の道を照らしてやるよ」

ラストソング [VHS]

ラストソング [VHS]

あれはカッコよかった。
北野武監督「キッズリターン」で言うところの
「マーちゃん、俺たち、もう終わっちゃったのかな」
「バカ野郎!まだ始まっちゃいねえよ」
と同じくらいに。

同僚のタカハシさんが冬の初め頃から静電気がひどいと悩んでおり、二人して「ブレスレットは効かないんだって」「カー用品が割りと優秀らしいよ」なんて言いながら静電気除去グッズを探していた。
結局タカハシさんはぺんてるあたりから出ているキーホルダー型のものを購入していたがこれが結構すごいらしい。
静電気が消えていくのを目視で確認できる上にそれをキーホルダーの中に蓄電できると言うのだ。そしてその蓄電した電気を使って夜道を照らすこともできるらしい。
すごい、すごーい!とチーム中みんな笑顔で静電気問題一件落着。

暗い夜道はピカピカのタカハシさんのライトが役に立っていることだろうクリスマスイブ。
今宵これから、真っ赤なお鼻のトナカイさんがサンタの夜道を照らし続けることになるであろう、クリスマスイブの夕方、私は職場で鼻を押さえて悶絶していた。書類戸棚に盛大に鼻をぶつけて。
目の前が白くスパークし、「オウ!」とも「アァ!」ともつかぬ呻き声をあげ、鼻血を出してトイレに駆け込むクリスマスイブ。
マスクで顔を隠して帰路に着いたが鼻が痛いったら。
よりにもよって今日!この憂き目に!サンタの手伝いでもしろという神様からの指令なのか。そうか。

絶対この後、腫れる、という予兆に満ちた鼻を抱えて、マスクの中、私は密かにあの映画のモッくんみたいなキメ顔で言ってやったよ。
「サンタ、俺がお前の道を照らしてやるよ!」

メリークリスマス、ミス赤鼻。

赤はなのトナカイ ルドルフ

赤はなのトナカイ ルドルフ

便利な正義

先日実家に行ったら台所の流し台に食器洗い機がどーんと鎮座ましましていた。
夫婦二人暮らしで最近料理もしないって言ってたくせになんで買う必要あるんだよ、と思いながら「あ、食洗機買ったんだ」と言ったら、母は慌てたように言う。
「もう、これがないとホント時間ないのよ~!忙しすぎて!全然時間ない!」
あらそう。そしてその食洗機のおかげで余った時間であの人が何をしているかと言えば、食器戸棚だの玄関扉だのにハロウィンの猫のシールを貼ることだ。

まあいい、人はそうして余暇を作り出してきたのだろう。古代ギリシャだって奴隷制度のおかげで暇があったからこそ、天文学や数学が発達したのだという噂だ。食洗機のおかげで「忙しすぎるご家庭」でもハロウィンを楽しめるなら良かったね。「忙しい」ってどういう意味だっけ。

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この時期、お米を研ぐ度に思い出すCMがある。まだ無洗米が出たての頃に山口もえが「お水が冷たくてお米がとげなーい」と可愛く言っていたCMだ。そんなあなたにとって無洗米はとっても便利ですよ、という趣旨だった。あの頃無洗米はまだ美味しくなかった。そのイメージが強すぎていまだに無洗米を避けているので今は美味しくなったのかどうかわからないが、当時は思ったものだ。
「いくら便利とは言え、まずいお米じゃねえ…」と。

しかし世の中は便利さを求めている。
洗濯機業界では「洗った後乾燥させ、最終的には洋服をたたんでくれるような洗濯機」を目指しているという話を小耳に挟んだことがある。どんだけ壮大な装置だ。
飲料業界ではノンアルコール飲料がどんどん出ている。「お酒飲めないときに便利だよ」と人は言うが、なぜそこまでして「酒ではないが酒のような飲み物」を飲まなければいけないのかよくわからない。まあ、便利な人がいるならいい。
自動車業界では自動運転技術を少しずつリリースしだしているし、細かいことを言えば昔から「便利グッズ」は日々生み出されている。やれ、干した洗濯物を一気に取り外せるタイプの小物干しだの、床掃除とダイエットが一気にできるタイプのスリッパだのと。

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これはスライサー。便利なベンリナー。その名の通り便利。我が家にもある。

「もっと便利」「もっともっと便利」になるために世の中は努力している。
時には効率至上主義だのなんだのと言われつつも便利さを求めるのは当然のことで、便利さを求めるために文明が発達し、便利さを追求するために仕事があるのだとも思っている。
「こうだから、こうできるから便利だからこうしたい」
全てのものにそういう理由があって然るべし、というのは現代病でしょうか…。

世の中が手帳やカレンダーにそわそわとし始める頃、毎年職場で同僚たちと「なぜ手帳もカレンダーも日曜始まりが幅をきかせているのだ!!」と憤る。
「いいデザインだったのに日曜始まりだった!」「世の中土日休みの人のほうが圧倒的に多いのに何故土日がわかれて表記されているのだ!」
怒りのままに日曜始まりである理由を調べるが、調べても調べても「慣習」という理由しか出てこない。

「慣習」!!!!

なんなんだ、その理由は。便利さこそ正義ではなかったのか、この世の中は!
と、別の友人に訴えたところ、友人は冷静に言った。
「でも世界的に週の始まりが日曜日だからさ、日曜始まりじゃないと週カウントに困るんじゃない?」
なるほど、それなら仕方ないのか、と半分納得しかけたが、調べてみると違う。

週の始まりはユダヤ教キリスト教では日曜日とされているが、イスラムでは土曜日らしいし、インドでは火曜日とのことだ。そしてヨーロッパにおいては実用性の観点から月曜日を週始まりとする、と2004年にISO8601で制定されているらしい。

ほうら、みろ!と勝ち誇ったような気持ちになりながら、ふと我に返る。
何がそんなに気に入らないのだ、私は一体何と戦っているのだ。
考えてみるにそれは、明確な理由がなく「慣習だ」と言われているせいのような気がする。
大昔に宗教や天文学によって定められた暦を西洋から受け入れて、なんとなくそのまま使って、「慣習だから日曜日始まりね、それが主流だから」と言われる違和感というか。

ここ数日、世間が夫婦別姓問題で盛り上がっていた。
正直、違憲か合憲かとか差別とかアイデンティティとか言われてもピンと来ず、なんでこのおばあさんはこんなにも泣くのか、と思ったが、だからと言って「同姓必須」というのも何かひっかかる。

これはアレか。カレンダー問題と同じことか。「慣習だから」と押し付けられることへ違和感か。そう思ったらやっとピンと来た。
「慣習だから」という理由しかないなら、カレンダーも苗字も、もっと気楽に選べるほうが便利じゃないかしら。
だって便利が正義の世の中なんだから。

帰りたい

この前、日本科学未来館プラネタリウムで「夜はやさしい Tender is the night」というプログラムを見た。

谷川俊太郎が監修したもので、東京湾の夕暮れの景色から始まって世界の星空に飛び、その星空の下の生活の音や生き物の声の中、麻生久美子がナレーションと詩の朗読を担当する。
冒頭の東京湾の夕暮れのシーンからもう胸が切なくなり、ミュンヘンの星空の下で街の喧騒を聴いたときには、どこかへ帰りたいと強く思った。

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こういう気持ちを簡単に表す単語は「ノスタルジー」だ。
その言葉を出すだけで、誰もがちょっと甘く切ない気持ちを共感したりする。
wikipediaによるとこの言葉は「1688年にスイスの医学生・ヨハネス・ホウファーによって新しくつくられた概念」だそうで「故郷へ戻りたいと願うが、二度と目にすることが叶わないかも知れないという恐れを伴う病人の心の痛み」を表すらしい。

これは病気の症状だったのか。
                    
f:id:mame90:20151207083844j:plain日渡早紀ぼくの地球を守って」より

春先から祖母の具合が悪くなって、実家に引き取ったが認知症の症状が進み、7月に介護施設に入った。
8月に祖母に会いに介護施設に行ったら、初めは笑顔で普通に話していた祖母が何かの拍子で豹変して、「帰りたい」「帰らせて」「連れて帰って!」「ここで死んでしまう」「死ぬよ!」と吠える姿に凍りついた。
すぐにスタッフの人が飛んできてにこにこしながら「今日の朝ごはん、おいしかったねえ」と話しかけると、途端に祖母も何もなかったかのような笑顔で「そうねえ」なんて答える。
でもしばらくしてスイッチが入るとまた喉の奥からドスのきいた低い声を出して「帰りたい」「死んでしまう」と吠え始める。
あの可愛らしい女の子のような祖母はこんな声を出せたのか。
その週末はずっと「帰りたい」というあの叫び声が耳から離れず、眠れないままにパソコンに「帰りたい」という言葉を打ち込んだ。

検索してみると「帰宅願望」は認知症にはよくある症状らしく、施設から家に帰りたいという願望もあるし、自宅にいても「家に帰りたい」と言い出すこともあるとのことだった。よくあると聞いて、こっそり安堵した。
この帰宅願望と向き合うことは介護の上で非常に切実な問題のようで、傾向や体験談、対策についてたくさんのサイトが見つかる。「不安があるから帰りたいのだ」「帰れないと言う言葉をかけると不安が増すので良くない」「話をそらしたり、なぜ帰りたいのかを尋ねたりすると良い」ということが多くのサイトに書いてある。

殆どの人がこの先に避けて通れない認知症という病気。
大人だけれど子供のように戻ってしまう、でも大人。
そのパラレルワールドの中で叫ばれる「帰りたい」という言葉は、一般的に使われる「ノスタルジー」という単語から呼び起こされる甘さや切なさとはかけ離れている。言葉本来の意味合いからは正しいのだろうけれど。

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なぜ帰りたいのか。
その問いかけに認知症の老人たちはなんて答えるんだろうか。
自分の頭の中にある、記憶と願望とが入り混じった物語を語り出すんだろうか。

なぜ帰りたいのか。
そう聞かれたら自分はいったいなんて答えればいいんだろうか。
なぜ、なぜ、みんな
どこだかわからないどこかに帰りたい不思議な気持ちになるんだろうか。

プラネタリウムの中、「夜はやさしい あたたかい夢のおふとん おやすみ ひとりで おやすみ ひとりで おやすみ」と麻生久美子がぽつぽつ歌う。
その声にノスタルジーをかきたてられ、「どこかへ帰りたい」と甘く切ない涙を流す一方で、頭の中にあの日の祖母の「帰りたい」という低い叫び声が蘇ってくる。
懐古でも望郷でもない、郷愁や追憶でもない、もっと逼迫した強い要求。
「故郷へ戻りたいと願うが、二度と目にすることが叶わないかも知れないという恐れ」を強く抱いた人の吠えるような声。
なぜ、なんて問いかけることもできないほど激しく。